森の世紀が始まりました (第32回)
── 夢、 トマトの木の森(1) ──
日本樹木種子研究所所長・東北大学名誉教授 江刺洋司
命の営みでは植物が直接太陽を光合成に使える点を除いては、動物と基本的には大差なく水を命の源泉(第13回)に体内時計(第19回)の波動に身を委ね、生体ダイナモ(第24回、図15)を稼動させて生きている仕組みを描いて来ました。しかし、植物と動物とでは運動ができるか否かでダイナモの動かし方には違いがあり(第27回、表1)、その違いは植物のミトコンドリア内での電子の流れ方(酸素呼吸)にあり、ATPを合成することはしませんが、一酸化炭素、シアンガス、硫化水素など動物には有毒な物質と無縁な電子の流れのバイパスを持つことでした(前回、図21)。
植物の生き方のこの違いは、運動し得ない宿命の基で生体ダイナモを回転させるために採用せざるを得なかったことで、その結果が生長という有機物生産を持続することになったのです。しかし、植物も動物も、皆さんのように若々しい世代での命の営みの過程では成長(細胞の分裂と発達)し続ける点では同じであり、そのためには度々述べて来たようにエネルギー(ATP)と還元力(NADPHで代表)の均衡ある供給が不可欠の条件でした(第18回)。したがって、「EXPO85、つくば科学万博」でトマトを樹木に変身させ得るか否かの判断は、人為的にトマトの生育期間を通じて両者の均衡を長期間保証できるか否かでもあったのです。特に、地上部の成長を決めるのは地下の根系の発達の程度でしたので(第22回)、24時間周期で昼夜の長さと気温変動をある範囲内で保つことは当然として、根系の生長を無限に続けさせ得る条件を確保することが成功に導く鍵でした。
生命躍動の他の調節系、エネルギーと還元力生産に係わる補酵素群の相互補完
動物も植物も細胞分裂とそれに続く細胞生長(有機物生産)を持続することで成育しますが、それはATPとNADPHの供給があってのことでした。植物なら強光に恵まれれば光化学反応で水を分解して一挙に両者を大量に手に入れることが出来ました(第5回)。しかし、暗闇の世界に生きる植物の根系は動物と同じで緑葉が日中に生産した有機物に頼ってしか生きることも生長することも出来ません。しかし、動物のように運動でATPを消費して生体ダイナモを回転させ得ず、植物は有機物の生産を続けることでATPを消費することだけがダイナモを回転させる唯一の手段でした。と言ってもその際には、素材、中でも機能的、構造的に重要な役割を担う物質を生産するための材料が無ければ出来ない相談です。哺乳動物なら体を構成する骨格の成育が必要でしょうが、植物でそれに対応するのは各種の多糖類とリグニンからなる細胞壁や維管束、更には樹木となればそれらが重層化した材(木質)(第18回、図10)の生産のために炭水化物や脂質の高分子化合化が付随せねばなりません。これらの生産には大気中のCO2を大量に還元固定することで賄えるし、それこそが森林が地球温暖化阻止に最大の貢献をする根拠でした。ところで、それらを作るとしても欠かせないのは、種々の酵素タンパク質・補酵素(ビタミン類)やそれらの合成に指令を出す核酸で、それら全てはアミノ酸をもとに作られたものでした。専門的なことになるので詳述しませんが核酸類の合成にも実は直接的に分子上CO2も参加しています。生物が体を作り上げるとは、それこそが有機物の生産・蓄積ですから、度々話して来たように生体エネルギーATPと還元力の代表NADPHの存在量と均衡によって制御される現象でした。例えばATP/ADP比が解糖系で調節酵素の反応の速度や方向を制御する(第18回、図10)ことで生体ダイナモの回転速度の調節に働きましたが、植物では常に有機物生産のための種々の素材が存在し、ATPとNADPHの両者が揃ってはじめて各種の酵素反応も活躍出来たのです。特に多くの素材を低分子から高分子にまで作り上げるには、相応のNADPH量の供給が確保されねばならず、体内時計もそれに一役かっていました(第30回)。一日を通じてよりATPを多く求める時間帯があったり、逆にNADPHの方をより豊富に求める時間帯があり、その繰り返しが24時間の周期に表れていたのです。ところで、これらの時期に主役を演じる酵素群の活性を調節しているのは、NADH/NAD比、ATP/ADP比などフィードバックシステム以外に、図22に示すようにATP量とNADPH量自体の供給の均衡を取るシステムの稼動も必要で、生体内での酵素反応の活性や働く方向を制御するのに一役買っていたのです。
図22:エネルギーと還元力供給系の均衡を維持するためのシステム(異なる補酵素の相互転換とそれらに依存する脱水素群の分業体制)
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エネルギー(ATP)生産系と還元力(NADPH)生産系の分業と調整
図22の左側のNADが補酵素となる酵素反応にはNAD⇔NADHと連結してATPを生産するという極めて大きな役割を担っているだけでなく、それ自体が多くの酵素反応の触媒に貢献していて極めて重要です。しかし、生物が成育して行くには脂質やステロイドなどの合成も必要で、これには多量のNADPHの供給が不可欠です。特に、機能的に重要な働きをする(酵素自体の内部構造としても)-SH基を地下の硫酸イオンや大気中の硫黄酸化物を還元して供給するには硫酸還元酵素のように一挙に3分子のNADPHを必要とし、SO2 -2(亜硫酸イオン:webの表示の制限上左記のようになっております)+3NADPH→HS+3NADPでSH基を供給します。この反応もまた私達が都会の街路樹に大気浄化作用を期待する理由です。若い生物の成長期には何時もNADPHが不足気味になっています。緑葉なら光化学反応で水を分解して多量のNADPHをも供給してくれますが、地下に生きる根系では解糖系のバイパスであるペントースリン酸回路(図10)やCO2の暗固定後にリンゴ酸酵素を働かせて(図20)NADPHを供給することになりますが、それだけでは不足です。それを補うもう一つのシステムが図22右側で供給される還元力です。ここでの反応が全て可逆的であるということは、私達のように老化が始まれば、もうNADPHはあまり必要でないということで、有機物の合成は衰えて反応全体が逆方向に動こうというものです。
皆さんのような若者や若木では、どうしても地上部であれ地下部であれ、ATPの生産量に見合った還元力NADPHが沢山必要です。その際に両者の均衡をとるために最も重要な働きをしているのがNADキナーゼで、図22の左側で余ったATPとNADとを結合させて、NAD+ATP→NADP+ADPの反応で,還元されればNADPHとなるNADPを補充する働きを担っています。また、同様に余分に生じるNADHの有する電子を酵素、トランスヒドロゲナーゼでNADH+NADP⇔NAD+NADPHを介して盛んに成長しようとしている細胞に必要な還元力を提供し、−SH基だけでなく各種の高分子有機物を生産するための中間物質を提供しています。そしてこれら補酵素Iと言われるNAD(H)や補酵素IIと言われるNADP(H)こそ、私達にはビタミンB複合体の一員であるナイアシン(ニコチン酸アミド)として親しまれて来た健康増進剤なのです。(⇔:
化学反応が可逆的であることを示す:webの表示の制限上左記のように使用)
このように、成長しようとしている生体内の生化学的反応の多様な調節の仕組みが理解出来てさえいるならば、後はどのような人工的環境条件を与えれば、草本植物であるトマトを木本植物に変身させ得るかということになります。私が野沢氏から「木になるトマト」を「つくば科学万博」の目玉にしたいのですがと尋ねられて、「理論的には出来るはずです。」と励ませたのも、そのような考え方が出来ていたからです。では、どんなヒントを与えて励ましたのでしょうか。次回の楽しみにして下さい。
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