二十四節気七十二候
明治の改暦(太陰太陽暦から太陽暦へ)
明治5年(1872年)11月9日、政府は突然改暦の詔書を発表しました。それまで1000年以上も使用していた太陰太陽暦(二十四節気七十二候)を廃止し、太陽歴を採用すること。来る明治5年12月3日を明治6年1月1日とすること。時刻法を従来の一日十二辰刻制から一日24時間制に切り替えることを布達しました。
(この年の11月は太陽暦と比べて、ちょうど一ヶ月遅れていて詔書の発表された11月9日は太陽暦の12月9日にあたっていました。改暦の発表から実施までにわずか23日しかありませんでした。11月9日は太陽暦の採用記念日です。)
二十四節気
日本には何月何日というデシタルな暦とともに、「立春」とか「清明」「白露」などの美しい言葉で示される「二十四節気」という暦があります。四季に恵まれたこの国では、「二十四節気」によって、自然の再生循環と季節の移ろいを身体全体で感じ、自然との共生をしてきたのです。
立春(りっしゅん)
2月4日頃~2月18日頃
暦の上で一年の始め、春の始めとされ、暖かくなりはじめる。
雨水(うすい)
2月19日頃~3月5日頃
雪やあられが雨に変わり、氷や霜が融けはじめる。
啓蟄(けいちつ)
3月6日頃~3月20日頃
冬のあいだ土の中に巣ごもりしていた虫たちが目ざめ活動を始める。
春分(しゅんぶん)
3月21日頃~4月4日頃
春のなかば。昼と夜の長さが等しくなる。寒さもすっかりやわらぐ。
清明(せいめい)
4月5日頃~4月19日頃
万物が若返ってすがすがしく、さまざまな花が咲き乱れる。
穀雨(こくう)
4月20日頃~5月5日頃
稲や麦などの穀物の生長を助ける雨が降る。
立夏(りっか)
5月6日頃~5月20日頃
茶つみの始まる八十八夜の頃。初夏の陽がまぶしくなる。
小満(しょうまん)
5月21日頃~6月5日頃
山野が緑にみちあふれ、麦刈りの頃となる。
芒種(ぼうしゅ)
6月6日頃~6月21日頃
梅雨入りの頃、梅の実が黄ばみ、田植えが盛んになる。
夏至(げし)
6月22日頃~7月6日頃
太陽が最も高く昇り、昼が一番長く、夜が一番短くなる。
小暑(しょうしょ)
7月7日頃~7月22日頃
梅雨が明けて、暑さが次第に厳しくなり、セミが鳴きはじめる。
大暑(たいしょ)
7月23日頃~8月7日頃
連日三十度を越える。夏の土用の頃。最も暑く、子供たちは夏休み。
立秋(りっしゅう)
8月8日頃~8月22日頃
暦の上では秋となるが、残暑はなお厳しい。高原からは秋のたより。
処暑(しょしょ)
8月23日頃~9月7日頃
朝夕はいく分かしのぎやすくなり、昼間の短くなったことを感じる。
白露(はくろ)
9月8日頃~9月22日頃
朝、草花に白露の宿っているのを見る。台風のシーズンとなる。
秋分(しゅうぶん)
9月23日頃~10月8日頃
秋の彼岸。暑さもおさまり、みのりの秋を迎える。
寒露(かんろ)
10月9日頃~10月23日頃
山野はすっかり秋らしく、朝晩はさわやかである。
霜降(そうこう)
10月24日頃~11月7日頃
北国や高地では霜がおりはじめる。刈り入れの光景がみられる。
立冬(りっとう)
11月8日頃~11月22日頃
紅葉する木樹も多くなり、空気が乾いて、空が青く澄む。
小雪(しょうせつ)
11月23日頃~12月6日頃
高い山に初雪が降って、白く輝く。朝、息が白くなる。
大雪(たいせつ)
12月7日頃~12月21日頃
平地でも霜が降り、すっかり冬景色となる。枯葉が木枯らしに舞う。
冬至(とうじ)
12月22日頃~1月5日頃
太陽が最も低くなり、昼が一番短く、夜が最も長くなる。
小寒(しょうかん)
1月6日頃~1月19日頃
寒に入り、寒さは次第に厳しくなり、北国では連日雪が降る。
大寒(だいかん)
1月20日頃~2月3日頃
最も寒い頃。大雪が降り、氷がはりつめる。
七十二候
一年間を二十四等分して、それぞれにふさわしい名称をつけたものを二十四節気という。
そして、その節気の一つ一つをさらに三等分し最初の五日間を初候(一候)、次の五日間を次候(二候)、最後の五日間を末候(三候)として、一年間を七十二等分したものを七十二候という。
二十四節気と同様、それぞれの季節にふさわしい名を付けて時候の推移をあらわしたものということができる。
雑節
二十四節気の他に、季節を知らせるために暦に記載されているものが雑節である。
雑節と呼ばれるわけは、その起源が中国古代に起きた陰陽五行説に基づく迷信的なものや、日本で農業や漁業の体験から作り出された実用的なものなど由来や性格が雑多であるためである。
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節分
立春の前日
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節分(せつぶん)2月3日頃
季節の変わり目を言う言葉で、立春、立夏、立秋、立冬の前日が広義の節分ですが(四季の分かれ目を意味していました。)、いつからか立春の前日だけが暦に記載されるようになりました。これは立春正月、すなわち一陽来復して春になるという考え方からきています。翌日から年の初めであること、気候が冬から春になるということで、この日は、一年の最後と考えられ、邪気をはらい、幸せを願ういろいろな行事が行われてきました。
豆まきをして鬼を追い出す風習は、中国から伝わりました。
昔は「追儺(ついな)」「鬼遣(おにやらい)」といって、宮中行事のひとつでした。毎年、大晦日に疫鬼を追い払うために行われていました。これがしだいに民間に伝わっていったのです。年男が「福は内、鬼は外」という行事は中国、明時代の風習で、これが室町時代に伝わってきました。豆まき後、自分の年の数だけ拾って豆を食べる習慣は、これが年とりの行事であった名残りでしょう。
邪気が家内に入らないことを祈るために数々の風習が地方によってありますが、家の入り口に柊の枝に鰯の頭を刺して、差しておく風習もあります。こうしておくと鬼が柊の葉に刺さって痛がり、鰯の悪臭にびっくりして逃げていくと考えられていました。
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土用
冬の土曜:立春の前の約18日間春の土曜:立夏の前の約18日間夏の土曜:立秋の前の約18日間秋の土曜:立冬の前の約18日間
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土用(どよう)(1月17日・4月17日・7月20日・10月20日)頃から約18日間
土用は古くは「土王用事」とか「土旺用事」といい、土の気が旺(さかん)である時期であるため、土を動かしたり、穴を掘ることを忌むとされた。また、殺生も不吉とされました。
土はものを変化させる作用を持ち、用はハタラキの意が含まれています。
土用は中国古代の陰陽五行説に基づくもので、陰陽五行説では四季を五行(木・火・土・金・水)に割りふって、春は木、夏は火、秋は金、冬は水としました。このため、土に割振る季節がなかったのです。
そこで、四季の終り各18日間(土用は入りの日の時刻により、暦面の日数が18日または19日間となります。)を土の為の期間、つまり土用として割当てました。したがって立春の前18日間が冬の土用、立夏の前18日間が春の土用となります。そして立秋、立冬の前各18日間がそれぞれ夏の土用、秋の土用です。
このように、土用は年間に4回ありますが、猛暑の7月下旬から8月上旬にかけての夏の土用は最も印象が強く、ふつう「土用」というと誰でも夏の土用を思い出します。そのため、土用は夏だけと思っている人も少なくないわけで、夏の土用の期間の丑の日に鰻の蒲焼きを食べる習慣は、国民的行事となっています。
夏やせ、夏バテ防止に鰻を食べる習慣は『万葉集』にも見られるほど大昔から行なわれています。
なお、今日では次のように太陽の黄経上の位置によって土用を決定しています。
27度:冬の土用[1月18日から2月3日]
117度:春の土用[4月16日から5月4日]
207度:夏の土用[7月19日から8月6日]
297度:秋の土用[10月20日から11月6日]
土用の適用は上記のように中国の五行思想にもとづいていますが、日本の四季の変化、季節のうつろいの実際からして、季節のうつろいを読み取る上での土用の18日間は、とても興味深く、味わいのあるものです。しかし、現代を生きるわれわれは、土用という季節感がすっかり鈍ってしまっています。
日本の季節はゆるやかに変化しながら移行していきます。この移行の期間に寒さ暑さが行ったり、来たり。それが18日間ぐらいあって、春、夏、秋、冬が明らかになります。
冬の土用は、ほぼ大寒の節気、春の土用は、ほぼ穀雨の節気、夏の土用は、ほぼ大暑の節気、秋の土用は、ほぼ霜降の節気、つまり、寒、暑に雨と霜の節気が土用に相当するわけで、気候が厳しかったり、寒暖が定まりにくかったりする時季なのです。つまり、健康にも留意する必要がある時季ともいえます。
●立春の前、18日間の冬の土用は、ほぼ大寒の節気。18日間の終わりの日は節分、そして翌日は立春です。春の気配があちらこちらで立ち込めてきます。
●立夏の前、18日間の春の土用は、ほぼ穀雨の節気。18日間の終わりの日は節分、そして翌日は立夏です。夏の気配が萌してきます。
●立秋の前、19日間の夏の土用は、ほぼ大暑の節気。19日間の終わりの日は節分、そして翌日は立秋です。秋の気配が立ち込めてきます。
●立冬の前、18日間の秋の土用は、ほぼ霜降の節気。18日間が終わりの日は節分、そして翌日は立冬です。そろそろ冬の気配が萌してきます。
土用の期間を季節のうつろい、次の季節への移行の期間としてとらえてみると、一年間の季節のうつろいがよく理解できます。
土用をもう一度、意識して生活することが大事なのではないのでしょうか。
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彼岸
春の彼岸:春分を中心とした7日間秋の彼岸:秋分を中心とした7日間
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彼岸(ひがん)春分(3月21日頃)・秋分(9月23日頃)を中心とした7日間
暦には彼岸の入り(春分・秋分の3日前)と彼岸の中日(ちゅうにち:春分・秋分の日)と彼岸の明け(春分・秋分の3日後)が記載されています。
「暑さ寒さも彼岸まで」といわれるように、気候の良いこの頃、此岸(しがん:現世)から、仏の世界である彼岸(ひがん:来世)に極楽往生することを祈願する。この期間に墓参りをして、死者の来世における安楽を祈り、霊を慰める。
彼岸7日間の取り方が今のようになったのは江戸時代の終りからで、それまでは必ずしも春分・秋分が彼岸の中日にはなっていませんでした。
春分・秋分には日の出から日没までの昼と、日没から日の出までの夜の長さが等しく、これを昼夜平分といって、陰陽の気が調和していて気候も温和であり、何ごとも順調であるといわれました。
また、この頃太陽は朝、真東から昇り、夕方、真西に沈む。その沈んだ方角に阿弥陀如来の極楽浄土があり、彼岸の中日の日没を拝むと極楽往生が叶えられるとされた。彼岸はさまざまな農事の目安になっていました。
春の彼岸の頃には「こぶし」や「もくれん」が咲き、桜の開花も間近になる。春の気がみなぎってくる。秋の彼岸を知らせてくれるのは「まんじゅしゃげ」で、彼岸花の別名があるように、彼岸になると突然真紅の花がいっせいに開いて人々を驚かします。
つくづく自然のいとなみ、自然のいつくしみを感じさせる頃です。
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社日
春の社日:春分に1番近い戊の日秋の社日:秋分に1番近い戊の日
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社日(しゃにち)春分(3月21日頃)・秋分(9月23日頃)に1番近い戊(つちのえ)の日
「社(しゃ)」は、中国では土地の神(生まれた土地の守護神である産土神・うぶすながみのこと)の意味ですから、土地の神を祭って農事の無事を祈る日で、春と秋の二回行われ、それぞれ春社、秋社と呼び、単に社日といえば春のものを指します。
春は豊作の予祝の、秋は収穫への感謝の意を込めます。
春分又は秋分にもっとも近い戊(つちのえ)の日に行いますが、中国から伝わって後、土地土地の農神の祭りと習合していますが、大方は春の社日は田の神が星に下りる日であり、秋の社日は田の神が帰っていく日と考えられています。
ツバメが春に来、秋に去るので、この日を社燕(しゃえん)ともいいます。
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八十八夜
立春から88日目
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八十八夜(はちじゅうはちや)5月2日頃
八十八夜は立春を起算日として88日目にあたる。立春が2月4日で平年の場合は5月2日、閏年の場合は5月1日になります。
立夏の3、4日前なので、ことさらに八十八夜という雑節を立てる必要はないように思えるのだが、昔の庶民にとって二十四節気は少し難しくて覚えにくかったようで、立夏といいますが、八十八夜の方がなじみやすかったのでしょう。
「八十八夜の別れ霜」という諺があるように、この頃になると霜が降らなくなります。降霜の有無は農作業に大きく影響するので、農家の最も気にするところです。
しかし、時として遅霜の被害に合って、農作物に莫大な被害を受けることがあり、そこで、「八十八夜の毒霜」といういましめも口伝えています。
この頃は茶つみが始まり、新茶の芳香が食卓をにぎわしてくれます。「目に青葉、山ほととぎす、初がつお」の句にあるように、目に耳に舌に新鮮な初夏が生きる喜びを与えて くれる季節です。
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入梅
太陽黄経が80度の日
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入梅(にゅうばい)6月11日頃
気象の上での入梅は地域によって相違があり、年によって早い遅いがあります。しかし、大よその時期を知らせる必要があるところから、暦の上の入梅が設けられています。
暦の上の入梅は、現在では太陽が黄経80度に達したときと定められているので、夏至(黄経90度)のほぼ10日前となり、例年6月11日頃です。古くは芒種の後の最初の壬(みずのえ)の日とされました。壬の日が選ばれたのは陰陽五行説で、壬は水の気の強い性格とされたからで、多少こじつけっぽい理由です。
現在の方法だと、東海・関東地方の梅雨入りの平均に、ほぼ合っていて、ある程度合理性を持っています。したがって、平均値だと思って見れば、暦の上の入梅も雑節として記載されている意義があるわけです。
暦の上に「出梅」は記載されていないませんが、「入梅」があるのだから当然「出梅」もあります。これは古くは小暑後の壬の日とする説と、夏至以降の庚(かのえ)の日とする説とがありました。
入梅の語源は、梅の実が熟する頃に雨季に入るところから来ています。
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半夏生
太陽黄経が100度の日
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半夏生(はんげしょう)7月2日頃
雑節のなかで七十二候に採用されている唯一の例で、夏至の末候「半夏生ず」がそのまま半夏生となりました。半夏生とは半夏という植物が生えるという意味ですが、半夏とは「からすびしゃく」と呼ばれるものです。「からすびゃくし」は「ほそぐみ」という漢方薬の原料となります。
ところが、これとは別に「はんげしょう」という名の植物があるからややこしいです。「はんげしょう」は「どくだみ」の種類で、半夏生の頃にハート形の葉が白く変色する面白い習性を持っています。
半夏生は太陽が黄経の100度に達したときとされていますが、これは夏至からほぼ10日後にあたっています。この頃は梅雨の最中で、湿度も高く大変むし暑くなり、カビが生えたり、伝染病が流行しやすいのです。
そこで、飲水や食物に注意をうながすためにさまざまな諺やタブーが生まれました。たとえば「半夏生には天から毒の雨が降るから、井戸に蓋をしろ」とか、「半夏生の水は妊産婦に飲ませてはいけない」などといわれます。
また、田植の終期とされ、「半夏半作」といって、これ以降の田植は収穫がはなはだしく減少するから、「どんなことがあっても半夏生までに田植を終えなければならない」とされました。
近年は、田植の時期がずっと早くなったし、食品の衛生管理もゆきとどいてきたので、半夏生といってもあまり関心を持たれなくなりました。しかし、本格的な暑さの到来に先立って、この時期の健康に注意せよという意味で残しておきたい雑節です。
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二百十日
立春から210日目
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二百十日(にひゃくとおか)9月1日頃
立春を起算日として210日目なので、立春が2月4日で平年の場合は9月1日となるが、閏年の場合は8月31日になります。同様に10日後の二百二十日(にひゃくはっか)も9月11日の年と9月10日の年があります。
この頃から台風が来襲するようになり、大きな台風は二百十日より二百二十日の方に多く、東日本ではさらに遅く来襲します。
二百十日、二百二十日が最初に記載されたのは江戸時代初期の「伊勢暦」で貞享改暦(1684年)以降は全国の暦に記載されるようになりました。「伊勢暦」に最初に登場したわけは、伊勢の漁師たちが長年の体験によって、この日を厄日としていたからです。
大正12年(1923年)9月1日に発生した関東大震災によって、京浜地域を中心に甚大な人的物的被害を生じました。この教訓を忘れないために、この日は「防災の日」となっています。
9月1日の「防災の日」は大地震と二百十日とがダブルイメージとして活用されていて、いかにもふさわしい。ただし、二百十日が前日の8月31日に当っている年には、何となく気が抜けたように感じられてしまいます。
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二百二十日
立春から220日目
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二百二十日(にひゃくはつか)9月11日頃
立春を起算日として220日目なので、立春が2月4日で平年の場合は9月11日となるが、閏年の場合は9月10日になります。
この頃から台風が来襲するようになり、大きな台風は二百十日より二百二十日の方に多く、東日本ではさらに遅く来襲します。
二百十日、二百二十日が最初に記載されたのは江戸時代初期の「伊勢暦」で貞享改暦(1684年)以降は全国の暦に記載されるようになりました。「伊勢暦」に最初に登場したわけは、伊勢の漁師たちが長年の体験によって、この日を厄日としていたからです。
節句(節供)
江戸幕府によって制定された五節句の式日。
年中行事を行う日の中で、特に重要とされた日(節日)。
昔は節句は節供とも書きました。
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人日
1月7日
七草粥
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人日(じんじつ)1月7日
旧暦正月七日の称。人日とは文字通り「人の日」のことです。
古代中国の占術書「占書」の影響から一日から六日までは獣畜を占い、七日目になって人を占う日とされていたことが起源となっています。
正月1日を鶏(にわとり)の日、2日を狗(いぬ)の日、3日を猪(いのしし)の日、4日を羊(ひつじ)の日、5日を牛(うし)の日、6日を馬(うま)の日、そして7日を人(ひと)の日とする風習がありました。そして、それぞれの日には、その動物を殺さないようにしました。7日の日には犯罪者に対する刑罰を行わないことになっていました。
また、この日、7種類の若菜を入れた熱い汁物を食して無病息災を祈りました(この日の天候でその年の運勢を占い、もし晴れたなら幸があり、曇りなら災いがあるとされていました。)。
一方、日本には正月最後の子(ね)の日に野に出て、春の若菜を摘む「若菜摘み」の習慣があり、以後これが中国の人日の風習と結びつき、室町時代前期までに七種粥の習慣として成立したと考えられます。
江戸時代、人日は公式行事となり、将軍以下が七草粥(ななくさがゆ・七種の草の粥・せり・なずな・ごぎょう(ははこぐさ)・はこべら(はこべ)・ほとけのざ(おおばこ)・すずな(かぶ)・すずしろ(だいこん)の七種)を食べて祝い、無病息災を祈念しました。武家においては大変に重視された祝日でした。現在では七草粥の風習の方が有名になって、人日という言葉は忘れられています。
旧暦では、1月1日、あるいは、1月1日から7日を大正月というのに対して1月15日または1月14日から1月16日までを小正月といいます。
大正月を「男正月」というのに対して小正月を「女正月」ともいい、松の内の間は本来、この小正月までの期間を指すが今では大正月の期間だけを示すようになっています。
また、「十五日粥」は、古く中国から学んだものとも、わが国、固有の民俗とも言われますが、「小豆粥」「望の粥」として今でも一般に親しまれています。
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上巳
3月3日
桃の節句・雛祭り・女の子の祝い・巳
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上巳(じょうし)3月3日
上巳とは旧暦3月の「上旬の巳(み)の日」のことです。元巳(げんし)ともいいます。
古来、中国ではこの日、この日の邪気を払うために、桃の木の花の咲く水辺に集まって、川で身を清め「流水曲水の宴」を行う習慣がありました。これが平安時代に日本に取り入れられ、宮中では、曲水の宴を張り、祓(はらえ)を行うようになりました。やがて曲水の宴はすたれましたが、上巳は巳の日の祓として定着していきました(上司の祓)。形代(かたしろ:祓の時に用いた紙の人形(ひとがた))として人形を作り、それに穢れを映して川や海に流す風習になり、これが流し雛(ながしびな)です。
上司の祓は、その後、雛祭りとして発展し、後に上巳は3月3日の雛節句を指す言葉としても使われ、上巳の節句ともいわれるようになりました。
一般的には、「桃の節句」といって女児のいる家で雛人形や調度品を飾り、菱餅、白酒や桃の花を祭る行事となっています。女子の健やかな成長を願う祭で、女の子が生まれて初めて迎える節句を初節句といって、特にお祝いします。
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端午
5月5日
端午の節句・鯉のぼり・男の子の祝い
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端午(たんご)5月5日
旧暦5月5日の称。男の子の節句です。端午とは「初五」の意で、端は最初という意味で午は五と同音で同じ、つまり端午は、もともと月の初めの午(うま)の日のことをいい、毎月の上旬の5日の意味もありました。特に5月5日をさすようになりましたが、古くは五月以外の月の5日にも使われていたようです。中国では月と日の数が重なる日を祝日にする風習があり、5月5日を端午として祝うようになりました。古来中国ではこの日、野に出て薬草を摘んだり、蓬(よもぎ)でつくった人形を家の戸口にかけたり、菖蒲(しょうぶ)酒を飲んだりして邪気を祓う行事が行われていました。これが平安時代に日本へ伝わり、貴族からしだいに民間へと普及していきました。
日本では菖蒲や蓬を軒につるしたり、ちまきや柏餅を食べてお祝いをしました。江戸時代以降は男子のいる家では鯉のぼりを立て、甲冑・刀武者人形などを飾って、子どもの成長を祝う行事になりました。
この日、菖蒲湯に入る地方も多く、菖蒲がまじないに使われたのは、これが昔から薬草であり、邪気・悪魔を祓って火災を除くと信じられていたからです。
もともと日本では、端午の節句は女の子のお祭りでした。田植えが始まる前に、早乙女(さおとめ)と呼ばれる若い娘たちが「五月忌み」といって田の神のために仮小屋や神社などにこもって穢を祓い清めていたのです。
つまり、この日は、田の神に対する女性の厄払いの日だったのです。5月の節句は、日本古来の「五月忌み」の習俗と、中国伝来の端午の節句が一緒になったものとみることができます。江戸時代になるとこの日が五節句の一つである「端午の節句」に定められ、武者人形を家のなかで飾るようになり、また中国の「龍門に登って鯉が龍になった」という故事にあやかって、子どもの出世を願うために鯉のぼりを立てるようになりました。5月5日は完全に男の子の節句になったのです。
ところで端午の節句には、ちまきや柏餅を食べる習慣があり、この日に、ちまきを食べるのは中国の伝説に由来しています。
古代中国、楚(そ)の詩人であった屈原(くつげん)が5月5日に川に身を投じて死んだことを人々が悲しみ、命日になると竹筒に米を入れて投げ入れていたところ、ある年、屈原の霊が現れて、「米を龍にとられるので、竹筒ではなくて、龍が嫌うチガヤの葉(ちまきをくるんだ葉、いまは、笹の葉で代用される。)で包み、糸で結んでほしい」といった話が伝わって、この日にちまきが食べられるようになったとのことです。また柏餅は、柏が新しい葉が生えないと古い葉が落ちないことから、跡継ぎが、絶えないとの願いが込められているともいわれています。
また、菖蒲は中国で武を重んずる「尚武」という言葉につながることから男子の節句になっていったようです。ちなみに鯉のぼりの風習は、江戸時代以降の新しいものです。
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七夕
7月7日
星祭・七夕祭り(たなばたまつり)
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七夕(しちせき)7月7日
旧暦7月7日の称。七夕とは旧暦7月7日の夜のことです。
現在、東京では7月7日に行うが、地方によっては一月遅れの8月7日に行う所もあります。
七夕の行事にはいくつかの流れがあり、それらが複合して七夕の習慣ができあがったと考えられます。一つは牽牛星(けんぎゅうせい)と織女星(しょくじょせい)の星祭の伝説と乞巧奠(きこうでん)の行事です。どちらも中国から伝わってきたものです。星祭は牽牛星と織女星が年に一度、天の川をはさんで出会うというロマンティックな伝説です。この相会する日が7月7日であるとして、星を祭る行事となりました。乞巧奠の風習は女子が手芸に巧みになることを祈る中国古来のもので7月7日の夜、供え物をして、織女星を祭り、裁縫や習字などの上達を願う行事です。この中国伝来の星祭伝説と、これから発展した乞巧奠の行事は、日本に古くから伝わる棚織津女(たなばたつめ)の伝説(村の災厄を除いてもらうため、機織津女が機屋にこもって天から降りてくる神の一夜妻になるという話。)と結びつき、奈良時代に官廷や貴族の間に取り入れられ、やがて民間にも普及していき、女子が裁縫の上達を祈る星祭の行事とし長く続いてきました。笹竹を立て、五色の短冊に詩歌を書いたりして、手習い事の上達を願う習俗は、寺子屋が普及した江戸時代になってからのことです。江戸の市中では、6日の夕方竹売りから笹竹を買い、色紙や短冊をつけて軒先に立てるしきたりがありました。もう一つの流れは、古くからあった日本固有の七夕の民族行事です。七月の盆の先祖祭につながるもので、お盆の前に穢れを祓い清める行事であったと解釈できます。だから七夕の日には、水浴びを大切な行事としたところが多く、たとえば髪を洗ったり、子どもや牛・馬に水浴びをさせたり、墓掃除(はかそうじ)をしたりする風習が各地に残されています。
現在、七夕の家庭的行事は、幼稚園や小学校で行われる程度になっています。かつては、どの家でも竹笹に願い事を書いた短冊をつるし、色紙で細工したものを飾りつけ、家の門や入口に立てかけたものです。各地の商店街では客寄せのため、七夕飾りが行われています。青森の「ねぶた祭り」や秋田の「竿灯」も七夕祭の一つです。
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重陽
9月9日
菊の節句
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重陽(ちょうよう)9月9日
旧暦9月9日の節会。菊の節句・9月節句ともいわれます。
重陽は、中国の易でいう陽数(奇数)の極である九が重なることで、重九(ちょうく)ともいい、陽の極である九が二つ重なる9月9日は、大変にめでたい日とされました。邪気を祓い長寿を願って、菊の花を飾り、酒を酌みかわして祝ったといいます。始まりは、六朝時代の桓景(かんけい)という人物にまつわる故事にちなんでいます。「この日に高い丘などに登り、菊酒を飲めば、災いが避けられる」として9月9日になると人々は酒肴や、茶菓などを持って小高い山に登り、紅葉を眺めながら一日を楽しみ、邪気を祓ったということです。
古来、中国では菊の花を浮かべた菊酒を飲むのが風習となっていました。この風習が飛鳥時代日本に伝わって、宮廷の行事として菊花宴が開かれるようになり、平安時代には重陽節として正式な儀式となりました。江戸時代になると重陽の節句は五節句の一つ「菊の節句」として民間にも広まっていきました。最近はこの風習は少しずつ薄れてきていますが、いまでもこの日に菊にちなんで、各地で菊の品評会が開かれています。
9月9日では路地植えの菊は早すぎ、9月9日に間に合わせるため農薬で育てるハウス栽培の菊の花で菊酒、菊茶を楽しむ気にはなりません。
旧重陽だと菊の花を愛でるには良い時季になっていますが、新暦の9月9日では「菊の節句」には早すぎます。
日付を旧暦のまま据え置いた五節句は、特に日本人の季節感を狂わせています。
和風月名
旧暦における各月の日本風の名称のこと。
旧暦1年12ヶ月のそれぞれの名称は実にさまざまです。
これは日本独特の豊かな自然、そして季節感から生まれたものでしょう。
これらの語源には、さまざまの説があり、未だにはっきりしないことが多いのです。
和風月名が万葉時代から使われていたことは確かで、「万葉集」にも「武都紀(むつき)」もしくは、「牟都奇(むつき)」という今の一月を指す言葉が入った歌が詠まれています。
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睦月
1月
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睦月(むつき)
1年の最初の月のこと。旧暦、1月の異称を睦月。旧暦の時代には1月と書くことは稀で、正月あるいは「むつき」といい、これには、睦月(むつき)の字をあてていました。
睦月の由来については諸説ありますが、なかでは親しい人と睦みあうことからきたという説が通っています。元つ月(もとつづき)が略されてムツキとなったという説や草木の萌きざす「萌月(もゆづき)」が約されたものだとする説もあります。
「1月」といえばさほどでもないものが、「お正月」といだけで新しい 年が来たのだと思うし、親しみもあり、新年のめでたさのあふれた気分となり、気持ちもあらたまります。
※その他の1月の別称。
建寅月(けんいんげつ)・元月(げんげつ)・端月(たんげつ)・初月(しょげつ)・陬月(むつき)・嘉月(かげつ)・泰月(たいげつ)・初春月(はつはるづき)・初空月(はつそらづき)・霞初月(かすみそめづき)・暮新月(くれしづき)・子日月(ねのひづき)・三微月(さんびづき)・早緑月(さみどりづき)・初春(しょしゅん)・新春(しんしゅん)・孟春(もうしゅん)・子春(ししゅん)・上春(じょうしゅん)・王春(おうしゅん)・開春(かいしゅん)・献春(けんしゅん)・初歳(しょさい)・開歳(かいさい)・芳歳(ほうさい)・華歳(かさい)・年初(ねんしょ)・歳首(さいしゅ)・歳始(さいし)・青陽(せいよう)・正陽(せいよう)・解凍(かいとう)・月正(げっせい)
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如月
2月
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如月(きさらぎ)
旧暦2月の異称。如月といい、また、「きぬさらぎ」ともいいました。現在では、ほぼ3月にあたります。
「日本書紀」の仁徳紀の中に、奈良県東部の山中に氷室(ひむろ)を造り、夏には日本酒のオンザロックを飲んでいたという記事があり、その中に「春分(きさらき)」という呼称が用いられています。
語源説はいくつかありますが、寒さを防ぐために衣をさらに重ねて着る意から衣更着(きさらぎ)に、また陽気が発達する時期であるところから気更来(きさらぎ)になったというのがよく知られています。さらに草木の芽の張り出す月だからこの名がついたという説や、旧暦2月は燕が来る時季であるといわれており去年の旧暦8月に雁が来て、さらに燕がやって来始める月、すなわち「来更来(きさらぎ)」月が語源だとする説などがあります。
※その他の2月の別称。
建卯月(けんぼうげつ)・令月(れいげつ)・麗月(れいげつ)・雪消月(ゆきげづき)・梅見月(うめみづき)・梅津月(うめつづき)・初花月(はつはなづき)・大壮月(たいそうづき)・小草生月(おぐさおいづき)・中の春(なかのはる)・酣春(かんしゅん)・春半(しゅんはん)・仲陽(ちゅうよう)・仲序(ちゅうじょ)・為如(いじょ)・令節(れいせつ)・降入(こうにゅう)・華朝(かちょう)・美景(びけい)・恵風(けいふう)
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弥生
3月
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弥生(やよい)
旧暦3月の異称を弥生といいます。草木がいよいよ生い茂ることから春たけなわの時季をいう。新暦では、4月頃にあたります。
語感がやわらかで、いかにも陽春にふさわしい言葉です。草木のいよいよ生い茂る月の意で「きくさいやおいづき」が詰まってヤヨイとなったという説が有力です。
※その他の3月の別称。
建辰月(けんしんげつ)・花月(かげつ)・嘉月(かげつ)・桜月(さくらづき)・称月(しょうげつ)・蚕月(さんげつ)・桃月(とうげつ)・宿月(しゅくげつ)・病月(びょうげつ)・花見月(はなみづき)・春惜月(はるおしみづき)・夢見月(ゆめみづき)・早花月(さはなつき)・季春(きしゅん)・杪春(びょうしゅん・しょうしゅん)・末春(まつしゅん)・殿春(でんしゅん)・五陽(ごよう)・暮陽(ぼよう)・姑洗(こせん)・暮律(ぼりつ)・春章(しゅんしょう)・春抄(しゅんしょう)・花老(かろう)・華節(かせつ)・桃緑(とうろく)・竹秋(ちくしゅう)
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卯月
4月
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卯月(うづき)
旧暦4月の異称を卯月という。新暦では、ほぼ5月にあたる。
「卯の花月」というように卯の花の咲く月という意味ですが(旧暦12ヶ月のうちでただひとつ花の名のついた月名です)、一方「花残月(はなのこりづき)」ともいわれていて、事実、北海道では染井吉野が満開を迎えます。南北に長い日本列島の花暦をつづっている趣を合わせもつ言葉といえます。人も植物も快さを味わう初夏の訪れを伝える言葉です。
しかし卯の花説に反対の説もあり、ウヅキとは種月(うえづき)である、または、田に稲の苗を植える月、田植苗月(たうなえづき)であるという説がある。
卯の花とはユキノシタ科ウツギ属のウツギ(空木)の花のこと。枝がすぐに中空になるので空木の名になったという説。
日あたりのよい山野の川沿いなどに自生し、枝先に白い小花が群がるように咲きます。生け垣には、ヒメウツギが適しています。
※その他の4月の別称。
建巳月(けんしげつ)・余月(よげつ)・陰月(いんげつ)・乏月(ぼうげつ)・乾月(けんげつ)・鎮月(ちんげつ)・夏初月(なつはづき)・清和月(せいわづき)・木葉採月(このはとりづき)・得鳥羽月(えとりはづき)・首夏(しゅか)・孟夏(もうか)・始夏(しか)・新夏(しんか)・麦秋(ばくしゅう)・正陽(せいよう)・純陽(じゅんよう)・六陽(りくよう)・六気(りくき)・仲呂(ちゅうりょ)・純乾(じゅんけん)・乾梅(けんばい)・修景(しゅうけい)・青和(せいわ)
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皐月
5月
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皐月(さつき)
旧暦5月の異称、皐月という。新暦では6月ごろにあたる。
早苗月(さなえづき)を語源とする説が一般的です。また梅雨に入るので「五月雨月(さみだれづき)」「月見ず月」ともいいます。
なお古くは五月を「さつき」と読みました。元来、五月晴れ(さつきばれ)五月空(さつきぞら)といった言葉は梅雨の間のはれた日、または、梅雨明けの晴天のことを指しました。現在のような、ゴールウィークなどの行楽日和のこととはだいぶ趣を異にします。
※その他の5月の別称。
建午月(けんごづき)・写月(しゃげつ)・橘月(たちばなづき)・梅月(ばいげつ)・啓月(けいげつ)・悪月(あくげつ)・雨月(うげつ)・授雲月(じゅうんづき)・多草月(たぐさづき)・吹喜月(ふききづき・ふぶきづき)・稲苗月(いななえづき)・早稲月(さいねづき)・月不見月(つきみずつき)・梅夏(ばいか)・梅天(ばいてん)啓明(けいめい)・開明(かいめい)・長至(ちょうし)・芒積(ぼうせき)・茂林(もりん)・星花(せいか)
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水無月
6月
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水無月(みなづき)
旧暦6月の異称。水無月という。新暦では7月ごろにあたります。
暑さの盛りのころ、語源は梅雨も終わって、暑さが激しくて、水が涸れ、地上に水の無い月とするのが一般的なようです。
これとは逆に、田植えもすみ、田ごとに水を張る「水張り月」「水月(みなづき)」であるという説もあります。
「風待月(かぜまちづき)」も炎暑に涼風を待つというところ。「青水無月(あおみなづき)」は山野が青々と茂ったさまをいいます。「水無月」は音の美しい言葉であり、晩夏の雰囲気を背景に置いて味わうべき言葉というべきでしょう。
※その他の6月の別称。
建未月(けんびげつ)・水月(すいげつ)・未月(びげつ)・季月(きげつ)・旦月(たんげつ)・伏月(ふくげつ)・焦月(しょうげつ)・涼暮月(すずくれづき)・松風月(まつかぜづき)・鳴雷月(なるかみづき)・弥涼暮月(いすずくれづき)・季夏(きか)・晩月(ばんげつ)・長夏(ちょうか)・常夏(じょうか)・炎陽(えんよう)・積夏(せきか)・陽氷(ようひょう)・林鐘(りんしょう)・則旦(そくたん)・長列(ちょうれつ)・三伏の秋(さんぷくのあき)
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文月
7月
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文月(ふみづき)
旧暦7月の異称、文月という。だいたい新暦の8月とかさなります。
異称の中に「七夕月(たなばたづき)」「文披月(ふみひろげづき)」などがありますが、七夕に供える書物をひらくというところから出た文披月の略が文月となったという説がほぼ定説のようです。
しかし、稲の穂のはらむ穂含月(ほふくみづき)の略という説もあり水稲耕作に結びついて納得のいく説です。
※その他の7月の別称。
建申月(けんしんげつ)・新月(しんげつ)・相月(そうげつ)・蘭月(らんげつ)・涼月(りょうげつ)・冷月(れいげつ)・桐月(とうげつ)・否月(ひげつ)・七夜月(ななよづき)・女郎月(おみなえしづき)・秋初月(あきそめづき)・愛逢月(めであいづき)・孟秋(もうしゅう)・新秋(しんしゅう)・上秋(じょうしゅう)・肇秋(ちょうしゅう)・早秋(そうしゅう)・桐秋(とうしゅう)・大晋(たいしん)・窒相(ちっそう)・流火(りゅうか)・瓜時(かじ)・素商(そしょう)
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葉月
8月
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葉月(はづき)
旧暦8月の異称を葉月という。だいたい旧暦の9月から10月初めにかさなる。
紅葉した葉が落ちる月とか(「葉落ち月」「葉月」が訛ったものであるとい説)、雁が初めて来る初月(はつき)の意とかいう説が古くからありますが、季節的にずれるので語源に定説はありません。
※その他の8月の別称。
建酉月(けんゆうげつ)・壮月(そうげつ)・桂月(けいげつ)・素月(そげつ)・ (きょげつ)・観月(かんげつ)・木染月(こぞめづき)・秋風月(あきかぜづき)・紅染月(べにそめづき)・雁来月(かりきづき)・燕去月(つばめさりづき)・草津月(くさつづき)・桂秋(けいしゅう)・深秋(しんしゅう)・秋半(しゅうはん)・秋高(しゅうこう)・竹春(ちくしゅん)・橘春(きっしゅん)・迎寒(げいかん)・寒旦(かんたん)・南呂(なんりょ)・大章(たいしょう)・長五(ちょうご)・天岡(てんこう)・豆雨(ずう)・竹の春(たけのはる)
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長月
9月
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長月(ながづき)
旧暦9月の異称を長月という。新暦のほぼ10月にあたる。
夜が長くなるのを感じるころなので夜長月の略といわれるが、旧暦5月と並んで長雨の時季なので「ながめ」と称する物忌みの月だという説もあって一定しません。
※その他の9月の別称。
建戌月(けんじゅつげつ)・玄月(げんげつ)・菊月(きくげつ)・祝月(いわいづき)・詠月(えいげつ)・朽月(きゅうげつ)・菊間月(きくまづき)・紅葉月(もみじづき)・竹酔月(ちくすいづき)・寝覚月(ねざめづき)・青女月(せいじょづき)・色取月(いろどりづき)・小田刈月(おだかりづき)・季秋(きしゅう)・末秋(まっしゅう)・窮秋(きゅうしゅう)・残秋(ざんしゅう)・高秋(こうしゅう)・霜辰(そうしん)・季白(きはく)・無射(ぶえき)・終玄(しゅうげん)・授衣(じゅえ)
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神無月
10月
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神無月(かんなづき)
旧暦10月の異称を神無月という。「かみなづき」「かみなしづき」ともいいます。
古くからこの月に諸国の神々が出雲の国に集まるので(旧暦10月には全国の神々が出雲大社に集まり、男女縁結びの相談をするため、各地の神々が留守になるという信仰に由来するという)、諸国は神無しになる月なのだといいます。だから出雲では「神在月」となる。ただしこれは俗説で、「な」は「の」の意味で「神な月」は「神の月」すなわち神祭りの月の意味かとも考えられます。
現状では10月は翌月の新嘗祭(にいなめさい)の準備として新酒を醸(かも)す月、すなわち「醸成月(かみなんづき)」の意からきており神無月は当て字だとする説が有力です。
※その他の10月の別称。
建亥月(けんがいげつ)・陽月(ようげつ)・良月(りょうげつ)・大月(たいげつ)・吉月(きつげつ)・雷無月(かみなかりづき)・神去月(かみさりづき)・鏡祭月(っきょうさいげつ)・時雨月(しぐれづき)・正陰月(せいいんづき)・孟冬(もうとう)・開冬(かいとう)・方冬(ほうとう)・小春(こはる)・小陽春(しょうようしゅん)・極陽(きょくよう)・応章(おうしょう)・大章(たいしょう)・応鐘(おうしょう)
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霜月
11月
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霜月(しもづき)
旧暦の11月の異称。霜月という。
初霜は冬の初めにみられるから「霜月」の名は降霜(こうそう)のきびしい頃の感じです。
霜降り月の略とされるのが普通ですが、別説もいろいろあります。「凋む月(しぼむつき)」あるいは「末つ月(すえつつき)」が訛ったものであるという説などがあります。
※その他の11月の別称。
建子月(けんしげつ)・暢月(ちょうげつ)・子月(しげつ)・達月(たつげつ)・復月(ふくげつ)・章月(しょうげつ)・霜見月(しもみづき)・雪待月(ゆきまちづき)・雪見月(ゆきみづき)・神帰月(かみきづき)・神楽月(かぐらづき)・天正月(てんしょうづき)・竜潜月(りゅうせんづき)・盛冬(せいとう)・正冬(せいとう)・広寒(こうかん)・陽復(ようふく)・短至(たんし)・三至(さんし)・天泉(てんせん)・周正(しゅうしょう)・黄鐘(おうしょう)
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師走
12月
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師走(しわす)
旧暦の12月の異称ですが、今の新暦でも同じく12月に使われています。
師走の師は僧のことで(12月は僧を迎えて、経を読んでもらう風があったので師がはせ走る「師馳月(しはせづき)」であり、これが略された)、この月になると僧もあちこちとせえわしく走り回るところから出た言葉だと俗に言われているが、また師は伊勢の御師(おんし)と呼ばれる下級神職のことで、この人たちが歳末に伊勢神宮の札を全国に配り歩いたところから出た言葉という説もあって、こちらの方が歳末のならわしを感じさせる言葉として季節感を濃く含んでいるように思われます。
なおまた、語義的な解釈として「為果つ月(しはつづき:一年の仕事の終りの月)」によるとされる説もあります。
※その他の12月の別称。
建丑月(けんちゅうげつ)・極月(ごくげつ)・厳月(げんげつ)・臈月(ろうげつ)・除月(じょげつ)・窮月(きゅうげつ)・氷月(ひょうげつ)・汎月(はつげつ)・親子月(おやこづき)・春待月(はるまちづき)・梅初月(うめはつづき)・三冬月(さんとうづき)・季冬(きとう)・暮冬(ぼとう)・残冬(ざんとう)・黄冬(おうとう)・暮歳(ぼさい)・暮節(ぼせつ)・凋年(ちょうねん)・月窮(げっきゅう)・四極(しきょく)・大呂(たいりょ)・玄律(げんりつ)
国民の祝日
国民の祝日とは、昭和23年7月に制定された「国民の祝日に関する法律」により制定されました。以後いくつかの改正があり現在に至っています。
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元日
1月1日
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元日(がんじつ)1月1日
新しい希望と決意を持って、新しい年のはじめを祝う日として1948年に制定された国民の祝日です。(1月15日の小正月に対して大正月といいます。)
年の明けた初めの日、つまり1月1日の朝から夜までの一日を考えるのが基本です。元旦(がんたん)は、元は初め、旦は朝ですから元日の朝のことです。
昨日までの何やかや気忙しかった年の瀬から一夜明けると、ともかくもという気持ちになって、ゆったりとしてくるのもこの「元日」の雰囲気です。
昔からのしきたりのままに、外に出ている者も帰ってきて、一族揃って過ごす人たちも多いですが、現代の特に都会の生活者、あるいは若い世代などは、日常を離れた別の所で年末から年始を送る習慣も多くなってきています。
旧暦では立春に最も近い新月の日(朔日)が元日です。
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成人の日
1月の第2月曜日
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成人の日(せいじんのひ)1月の第2月曜日
独立した社会人として、大人になったことを自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い、励ます日として1948年に「1月15日」と制定された国民の祝日です。祝日法の改正により2000年から「土・日・月」と三連休になるように1月の第2月曜日に変更されました。
昔は、男子が十五才になった時、元服という儀式を行いました。「元」は初めという意味であり、初めて大人の服を着るとともに冠をつける(加冠:かかん)ことでした。日本では大人も子どもも帽子(冠)をかぶる風習はありませんでした。しかし推古天皇(六世紀後半~七世紀)のころから大人は帽子をかぶるようになり、奈良時代になると冠をつけることが儀式化されました。だから、髪を切って烏帽子をかぶり、刀をもらって成人としての名前をもらうことが元服だったのです。そして元服すると、神事に参加することが許され、社会教育を受けました。(褌(ふんどし)をつけるので「褌祝い」などともいわれました。)
一方、女性の場合は十三才前後で「成女式」といわれるものが行われました。髪を結い、笄(こうがい:髪をかき上げるのに使った箸のようなもの)を髪に差し「髪上げの儀」などといわれました。振り袖から留め袖に服を着替え、針仕事などを習うようになり、こちらは初めて腰巻きを付けることから「湯文字(ゆもじ:腰巻きのこと)祝い」ともいわれました。
「成人の日」はこうした昔の成人儀式からきているのです。この日、満二十歳に達した人を招待して成人式を催し、講演会を開いたり、記念品を贈ったりする市町村も多いようです。地方によっては、お盆で帰郷する青年男女も多いことから、8月中旬のある一日を狩の成人式に充てる市町村もあります。
ところで現在、成人は二十才からとされています。かつては十五才や十三才だった大人の仲間入りがどうして二十才になったのでしょうか。
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建国記念の日
2月11日
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建国記念の日(けんこくきねんのひ)2月11日
建国をしのび、国を愛する心を養う日として、1966年に制定された国民の祝日です。
かつて、この日は四大節の一つの「紀元節(神武天皇即位の日)」として1872年に制定されていましたが、戦後廃止されました。以前は大日本帝国憲法(旧憲法)が1889年のこの日に発布されたため「憲法発布記念日」となっていました。
「古事記」や「日本書紀」(記紀)に書かれた建国伝承の概略は「すべての人々が安らいで豊かに暮らせるよう、大和に都をつくろうではないか」。そう思い立った神倭伊波礼比古命(かむやまといわれびこのみこと:神武天皇)の一行は日向(ひゅうが:宮崎県)を船出し、日向灘から瀬戸内海を東へ向かいます。難波(なにわ)から大和に入ろうとするが果たせません。今度は紀の国(和歌山県)の熊野に上陸し、辛苦を重ねながら八咫鳥(やたがらす)に導かれ、ついに大和を平定。ということです。書紀は天皇即位の場面を簡潔にこう記しています。「辛酉(かのととり)年の春正月の庚辰(かのえたつ)の朔(ついたち)に、天皇、橿原宮(かしはらのみや)に即帝位す」この「辛酉年の春正月庚辰の朔」を西暦に直せば、紀元前六百六十年の二月十一日に当たるとして、明治になって二月十一日が「紀元節」と制定され、国の始まりを祝ってきました。これが戦後占領軍により廃止された後、昭和四十二年「建国記念の日」として復活したのです。
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春分の日
3月21日頃
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春分の日(しゅんぶんのひ)3月21日頃
「自然をたたえ、生物をいつくしむ」という趣旨で1948年に制定された国民の祝日です。戦前の旧祝祭日では、大祭日のひとつ、「春季皇霊祭」といっていました。
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昭和の日
4月29日
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昭和の日(しょうわのひ)4月29日
「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」日として2007年(平成19年)から国民の祝日に加えられました。
国民の祝日に関する法律(祝日法)の一部改正により追加されたもので、4月29日は昭和天皇の誕生日でもあります。戦前の旧祝祭日では「天長節(天皇の誕生日)」という祝日でした。
※「天長節」の「天長」は古代中国の「老子」の「天長地久」からきています。
天も地がいつまでも変わらずにといった意味です。唐の玄宗皇帝の誕生日を「天長節」と呼んだのにならい、日本では奈良時代にこの名称が使われたことがありましたが、明治六年に政府が祝祭日を定めたさい、天皇誕生日の名称として正式に使われました。(戦前まで皇后誕生日は「地久節(ちきゅうせつ)」と呼ばれていました。)だから「天長節」は必ずしも、天皇陛下の誕生日をお祝いしましょうというだけの日ではなかったのです。国民がこぞって「天長地久」、つまり国や世界の弥栄(いやさか:いままでより、もっと栄えること)を祈り、祝います。天皇を中心に、国民が一体感をもつ日として、とらえられていたのです。
天長地久(てんちょうちきゅう)とは、天地の存在は永遠であること。転地が永久であるように、物事がいつまでも続くことのたとえ。三省堂「新明解四文字熟語辞典」
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憲法記念日
5月3日
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憲法記念日(けんぽうきねんび)5月3日
連合国軍ダグラス・マッカーサー最高司令官の指令で草案が起草され、「国民主権、基本的人権の尊重、平和主義」を基本理念とした日本国憲法が、1947年に施行された日を記念して1948年に「日本国憲法の施行を記念し、国民の成長を期する」という趣旨で設けられた国民の祝日です。
憲法が公布されたのは1946年11月3日で、この日は「文化の日」に制定されています。
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みどりの日
5月4日
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みどりの日(みどりのひ)5月4日
「自然に親しむとともにその恩恵に感謝し、豊かな心をはぐくむ」日として、1989年に国民の祝日に制定されました。「みどりの日」に制定されるまでは昭和天皇の誕生日を祝う「天皇誕生日」でした。
平成元年2月15日に参院本会議にて可決された国民の祝日に関する法律により、天皇誕生日は、現在の天皇が即位した12月23日に改められ、同時に、みどりの日はゴールデンウィークの始まりの休日として国民の間に定着している4月29日になり、さらに2005年5月13日に改正祝日法が参院本会議で可決され、4月29日を「昭和の日」、5月4日を「みどりの日」とし、2007年1月1日より施行されるようになりました。
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こどもの日
5月5日
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こどもの日(こどものひ)5月5日
「こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する」趣旨で1948年に制定された国民の祝日です。1954年の国連総会で採択された「世界こどもの日」は11月20日です。
改正祝日法が参議院本会議で可決され、4月29日を「昭和の日」、5月4日を「みどりの日」とし、2007年1月1日より施行されるようになりました。
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海の日
7月の第3月曜日
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海の日(うみのひ)7月の第3月曜日
「海洋国家として、広く国民に海への理解と関心を求める」という趣旨で1996年に制定された国民の祝日です。
もともと政府は、1876年に明治天皇が東北、北海道を巡幸され、明治丸で横浜に海路帰られた日を記念して1941年に「海の記念日」と制定されていました。「海の日」を初日として運輸省と海上保安庁が中心となっての「海上安全旬間(7月20日~7月31日)」や「海の旬間(7月20日~7月31日)」が実施されています。
「海の日」はもともとは7月20日でしたが、祝日法の改正により2003年から7月第3月曜日になりました。
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山の日
8月11日
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山の日(やまのひ)8月11日
解説文
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敬老の日
9月の第3月曜日
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敬老の日(けいろうのひ)9月の第3月曜日
「多年にわたって社会に尽くしてきた老人を敬愛し、長寿を祝う日」として1966年に制定された国民の祝日です。
もとは9月15日でしたが、祝日法の改正により、2003年から9月の第3月曜日になりました。現在は老人福祉法の定めによって、9月15日は「老人の日」また9月15日~9月21日は「老人保健福祉週間」となっています。
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秋分の日
9月23日頃
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秋分の日(しゅうぶんのひ)9月23日頃
「先祖を敬い、亡くなった人を偲ぶ」という趣旨で1948年に制定された国民の祝日です。戦前の旧祝祭日では大祭日のひとつ「秋季皇霊祭」といいました。
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体育の日
10月の第2月曜日
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体育の日(たいいくのひ)10月の第2月曜日
「スポーツに親しみ、健康な心身を培う日」として1966年に10月10日と制定されましたが、祝日法の改正により、2000年から10月の第2月曜日となりました。昭和39年の10月10日、第18回オリンピックアード東京五輪の開会式でした。昭和41年に制定された「体育の日」がこの東京オリンピックの開催を記念したものであることはいうまでもありません。
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文化の日
11月3日
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文化の日(ぶんかのひ)11月3日
1946年のこの日に日本国憲法が公布されたことにちなんで、1948年に制定された国民の祝日のひとつです。自由と平和を愛し、文化をすすめる日です。戦前の1927年には明治天皇の徳を讃えるために「明治節」という祝日に制定されました。明治時代には、この日は「天長節(明治天皇の誕生日)」という祝祭日でした。
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勤労感謝の日
11月23日
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勤労感謝の日(きんろうかんしゃのひ)11月23日
「勤労をたっとび、生産を祝い、国民がたがいに感謝しあう」を趣旨として1948年に制定された国民の祝日です。1872年の改暦以前は「新嘗祭(にいなめさい:天皇が新しく収穫された新穀を食べて、その年の収穫を感謝する儀式)」の名で11月の第2卯の日に行われていました。1962年からこの日を中心にして1週間、農林水産物の展示などの「農業祭」が実施されています。
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天皇誕生日
12月23日
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天皇誕生日(てんのうたんじょうび)12月23日
1989年に制定された国民の祝日。今上天皇の誕生日(1933年)を祝う日です。
戦前は「天皇誕生日」は「天長節」といって祝祭日の中の四大節の一つでした。明治天皇の誕生日は9月22日(旧暦)でしたが、新暦の採用で1873年以降は11月3日に変更になりました。大正天皇の誕生日は8月31日、昭和天皇の誕生日は4月29日でした。4月29日は現在「昭和の日」となり、国民の祝日です。