私は、西には身近に富士山を、東には箱根山を、北には丹沢を、南には愛鷹山が望まれ
る土地に育ちました。幼いころは、たまにこの地域で一番大きい町だった沼津や、もっ
と大きな東京に連れて行かれても、そこが世界のすべてでした。裏山にたまに登ると、
富士山の脇に見える雪をかぶった山や箱根の向こうに見える景色が何か誘っているよう
で不思議でした。そんなこともあってか高校、大学、大学院と順番に大きな都市に住む
ようになりました。そして帰省する度に、帰った実感が湧く場所が決まっていることに
気づきました。東からは神奈川の松田あたりから富士を眺めたとき、西からは富士川ま
で来て富士を眺めた時でした。誰にもある帰るべきところの象徴が、私には富士山だと
気づかされたのはこのときでした。
それから、富士山を古人がどう眺めたかに興味を惹かれました。一番は万葉集です。
富士の山に神々しさを感じた赤人のような旅人の歌、多分防人であろう遠く旅立つ男が
家族を思う歌、恋人同士の逢瀬の為に長い富士の裾野を行く歌などに、当時の人々の富
士に感じた思いが伝わって来ます。特に、東国から九州まで旅立つ防人を富士の裾野に
見送った親や家族には、辛い富士だったでしょう。無事、九州から帰ってきた防人には、
待つ人たちが足柄峠の向こうにいることを思うと、富士の裾野は長くとも、あと少しの
道のりだったに違いありません。この時代の富士山は言葉で残りました。
富士山は、その後信仰の山になりました。そして多くの書画に描かれました。富士宮
の富士山本宮浅間大社の富士曼荼羅図が有名です。北斎の富嶽三十六景が有名ですが、
また、何よりも一層具体的に富士を表したい、富士の美しさを表したいという思いが伝
わって来ます。
江戸時代の終わりから、写真が富士山の表現に加わりました。以来、富士山の大衆化
と共に、膨大な数の富士山の写真が、様々な職業、階層、年代の方々によって撮影され
てきています。外国にも知られる山となり一層我が国の象徴の様になりました。私もせ
っせと機材を持って撮影にしばし歩いたものです。
写真は近年、方式がフィルム(銀塩)からデジタルに替わってきました。また、富士山
も明治以降、測量ばかりでなく、気象や地質といった科学調査が入る山になりました。
人々とは昔の関係をもちつつ別な認識の対象になったのです。富士山で初めて越冬気象
観測を行った野中到夫妻を描いた「芙蓉の人」は有名です(私には、夫妻が麓で観測の準
備の為に利用した旅籠を先祖がやっていたことが誇りです。小説中にもあります。)。現
在、多くの観測データや科学データはアナログからデジタルに替わってきましたが、こ
れは私達に別な富士山の姿を見せてくれはじめました。
例えば、北斎が描いた富嶽三十六景の富士山で使った稜線を表す曲線は次の様に指数
関数で表されます。
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北斎は指数関数で描く富士の姿に美を感じたのでしょう。北斎の眼は、富士の陵線は指
数関数と決め込んだ様です。実際の富士山では指数関数にならないときも指数関数を使
っています。
実際、江尻田子の浦沖の描かれた場所から富士を望んだ場合の富士の陵線は、西側(向か
って左)は指数関数での近似は難しいですが、東側(向かって右)は指数関数がきれいに表
れます。
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この内容は、第5 回東アジア数学教育国際会議
(EARCOME5) 2010 年8 月18 日〜-22 日
において紹介いたしました。
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ここで使ったデータは国土地理院のデジタルデータです。
私達は、富士の形について、天才北斎の眼の捉えた富士山を検証する中から、科学・
技術の恩恵によって新しい富士山を知ることが出来ました。これは、ほんの一例ですが、
私達は、デジタルデータの登場により、新しい富士を知ることが出来る様になりました。
私は北斎の眼に感嘆するとともに、この様なデータの作る新しい富士山の姿にも驚きの
声を漏らします。科学・技術の力を通して見た富士山は、魅力を減じるどころか、かえ
って富士山の不思議を私達に教えてくれます。
今、私の富士山を味わい方を紹介しましたが、大事なことは、私にとって富士山が帰
るべきところの象徴ということです。そして、この様な「私の富士山」は「富士山でな
くともあなたの富士山であればいい」ということだと思います。誰もが持っている富士
山(海辺に育った方には沖に見える小島かも知れません)を自然に愛する気持ちが大事だ
と思います。それが、地域を愛し、国を愛し、地球を愛すること、自分と同じように「私
の富士山」を持っている相手に敬意を持って接することをもたらしてくれることでしょ
う。
こう言う私に、先人は「晴れてよしくもりてもよし不二の山もとの姿は変わらざ
りけり」と謳っていました。
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御殿場市在住佐藤一(静岡県立御殿場高等学校)
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