富士登山 1000回。 登頂



  

実川 欣伸      

( 日本山岳会会員        
富士山1011回登頂     
7大陸最高峰6座登頂 )

  京浜工業地帯の、ど真ん中で、生まれ、育つ、家の前から、富士山が小さく見えた。子供のころ、海に浮かぶ帆かけ舟と富士山の絵をよく描いた。中学を卒業、会社の山岳部で丹沢山系を登山。20歳の頃冬富士を登る予定が、大学山岳部等が雪崩に遭難多数の命を奪う遭難で中止。私は大学に進学、山とは疎遠になる。35歳頃。静岡に移住。家族5人で一度だけと、登った富士山。朝の影富士をバックに写した写真は良い思い出だ。伊豆箱根、愛鷹山系を家族で登山。会社に中国研修生が来て、富士山に登りたいと、毎年5〜6回一緒に登る。それが縁で富士山の虜に、93年富士宮口―山頂を5連続登頂。9月には御殿場口〜須走り口〜吉田口〜お鉢回り、剣が峰〜富士宮口〜御殿場口の4登山道一筆登山を、最後の御殿場下山道で幻覚症状が現れる。双子山が遠くに飛んでいったり目の前に戻ってきたり、小さく見えたり、同じ場所を歩き進んでいない、ほほを叩いたり抓ったりしても駄目。目印に物を置き前進を確かめ、我に返る。95年日本縦断登山を親不知海岸から梅海新道〜北ア〜乗鞍岳〜御嶽山〜中央ア〜南ア〜富士山〜千本浜海岸。29日間。3000m峰29座、完歩、この年上越地方は100年に一度の豪雨で大雨洪水雷注意報の中スタート。雪倉岳では強風雨で二日目に思い切って飛び出す。体力の消耗がひどく館山でリタイヤする積もりでいた。5〜6件断られ雷鳥荘で混んでいるが、と泊めてもらう。誰もいない風呂に入り、鏡の前に座り見慣れない顔に驚く。真っ黒く痩せこけ、これが自分かと唖然とした。ビールを飲み寝た。翌朝嘘のように疲れが取れていた。外は今までの天気が嘘のように朝焼けに輝いていた。それからは天候に恵まれ、段々と大きく聳え立つ富士山を目指して、歩く、山では話をすると酒を振舞ってくれた。

下界では古雑巾のような姿で宿を断られた、食下がり泊めてもらうと客は一人もいなかった。訳を話すと洗濯してくれ、親切にしてくれた。身延で露天商が私を見て、桃を何個でもいいから食べていけ。大きな瑞々しい桃をご馳走になった。人の情けが忘れられない。29日目の朝、最後の富士山頂に立った、富士宮口から須山、裾野と歩き、ゴールの千本浜に夕暮れ迫る19時に到着。家族が迎えに来るまで、堤防に座り、青い海を眺めていた、何も考えずに、ただ、ぼーとして。97年、100回記念に東京駅から午後3時スタート東海道、箱根とアスファルトジャングルの中、太陽の照り返しと排ガスの中、何十年ぶりの猛暑で、熱中症との戦いだ。2リットルのボトルを一気に飲んでも瞬時に汗が噴出す。箱根に入り早川の涼風、山から流れ落ちる冷水で身体を拭き、息を吹き返す。乙女峠で日が暮れる、7合目で朝焼けを見る、43時間歩き通し山頂に着く。03年、スカイライン旧料金所をスタート、富士五湖を一周して登る、赤い帽子とチャンチャンコを着て、還暦記念を山頂で祝う。35時間だ。06年富士宮口―浅間神社のG連続登頂に挑戦6往復までは、順調だったが、7回目の登りで、夕食前に飲んだ清涼飲料のせいか、腹が膨れ苦しくて歩けない。休みながら歩く、疲れから幻覚症状だ、下界と8合目辺りで3人ずつが、ライト点滅させ信号を送り合っているようだ。今度は襖程の大きさの黄色く輝く中で人が走馬灯のように回転している、下を見ると日本ランド方面で3列に並んだ満艦飾の艦船が前後進している、右の稜線には鳥の形をした信号弾が、左にはヘリコプターがライトを点滅させホバーリングしている。8合目辺りでは薬キョウのような黒い網目の物が敷かれている。寒さと睡魔が襲ってきた。寝ては大変と頬を叩き登る。空が明るくなるにつれ正気になり快調になる6合目で知人等に励まされ8登頂を達成。55時間だ。未だ登れる気がした。09年akb48の大島優子さん達6名と悪天候の中登頂する。翌年、彼女達の人気が急上昇したのも富士山に登り日本一になるという根性と努力の結果だろう。10年、昨年7月、午後8時後頃、5合目に停めた車で寝る用意を、していた時、ドーンと言う大きな音がした車外に出てみたが異常は感じられなかった。翌日キャンピングカーが落石の直撃を受け男性が即死と聞く。今年7月中旬5合目登山口で山口テレビ局から取材を依頼され待機している時、傍にいた家族づれと話をすると昨年の落石事故で亡くなった男性の家族だと言う、事故当時の話をすると、涙ぐまれ、一周忌を済ませ現場に線香を挙げに来たと、富士山に一度も登らずに亡くなったので、何百回も登っている方と会ったのも供養になるのではと、一緒に写真を写す。テレビの取材で登山中の芸能人のハナワ親子と何回も会った。息子はかなり太り、きつそうだ。息子にアドバイスすると、ミスター富士山が言うことだから間違いないぞと息子に話していた。10月10日。1000回記念登山を9日夕方。富士の田子の浦海岸から、三浦豪太氏、等7名と大雨洪水雷注意報のなかをスタート村山浅間神社へ川のように流れる道をある十里木の天照教までは登山道か沢か分からない程大雨と濁流の中を歩く。高鉢の駐車場脇を通り樹林帯を抜け大倒木帯に差し掛かると、天気は快晴になり、まるで南アルプスや北アルプスのお花畑から富士山を見ているような、絶景だ。4時間程遅れて、多勢の仲間たちが待つ山頂につき祝福された。富士山に登り25年になる、その間、今日、52歳の誕生日なので、2登頂をさせてください、と毎日私と一緒に2登頂を繰り返した男性。自分探しの日本一周の途中に富士山に登った、九州の若者。吉田への下山道を間違えた、家族6〜7人を須走り口から、お中道を通り吉田口まで案内をした人々。毎年、何十回と一緒に、登り、登山中に会う仲間たち等、多くの人々との出会い。又四季折々の、森羅万象との触れ合い等、計り知れない喜び、悲しみ、感動を与えられた。富士山からも大自然の知ることのできない深さ、怖さ、美しさ、などの畏敬の念、それらを感じつつ、登った。1000回だ。
11年正月に頂いた賀状に、「年を重ねただけ人は老いない、目標を失った時、初めて老いが来る。目標をください」と、この人は今年。米寿の記念に、大阪の日本一低い、高さ4メートルの天保山から480キロを歩いて日本一の富士山に登る計画だ。又、元富士山日本一の大貫金吾氏から「富士山登頂回数。前人も後人も未到の、記録を目指して下さい」と。1000回達成時頂いた言葉は、「富士山を1000回愛し、富士山に1000回愛された男」だと。これからも、富士山を愛し、富士山に愛され、そして、多くの人々に、力を与え、力を頂き、終生、登り続けたい。
「一日。一登。一登。一歩。一歩。を確実に」、


2010年&nbps;1月20日掲載



  >> 戻る