昔の人々は太陽によって時刻と季節を知り、月によって日にちを知りました。日月は人々の暮らしに欠か
せないもので、誰もがそれが無いことなど想像もできないことでしょう。日本人にとって富士山はまさに
その日月と同じような存在でした。
『万葉集』で「日の本の 大和の国の 鎮めとも います神かも 宝とも なれる山かも 駿河なる
富士の高嶺は」と詠われ、富士講の祖、食行身禄が「不二は三国の根元也」と語るその底流に流れる
ものは、仰ぎ見る富士でしか発っせられぬ霊気が富士信仰の根源であり、それは何物にも替えがたい
ものとして人々の前に存在し続けてきたのです。
現在、故郷の山を富士山になぞらえた「ふるさと富士」が全国に数多くありますが、その最初の銘々は
どの山で、どういう理由で生まれたのかはわかっていません。『竹取物語』にあるように「駿河の国にある
もっとも天に近き山」と伝説のように語られ、誰もが見たこともなかった山が、江戸後期、街道の整備により
庶民の旅が飛躍的に発展し、自分の目で富士山を見た人々が故郷に帰り、その印象が様々に語られたもので
あろうことは容易に想像できます。また江戸土産として売られた浮世絵を通して富士山の姿が全国津々浦々の人々
の目に触れていきました。そうした普及とともに「なにごとのおはしますかは知らねどもかたじけなさに涙こぼるる」
(西行)という日本人に共通する富士山の心象風景も伝わっていったと思われます。
郷土の愛する山を、富士山に似ているということで○○富士と名付けたのは自然発生的になされたと考えられ
ますが、その背景には、日本人の精神の拠りどころとしての富士山を代置する心があったのではないでしょうか。
私たちが富士山を眺めるとき、実際の富士山の美しさに加えて、万葉集からはじまり、北斎の赤富士、銭湯の
富士山に至るまで、日本人が富士を他には替わり得ない精神のアイデンティティとしてきた根拠があります。
○○富士もその富士に仮託した詩や絵画と同じイメージの表現であり、人々の内なる「日本」の銘々にほか
なりません。
2009年10月17日掲載 ..
|