森の世紀が始まりました (第14回)
── どうして水は命の源なの (11) ──
日本樹木種子研究所所長・東北大学名誉教授 江刺洋司
前回は私達がご飯を食べることは、太陽を食べるのと同じで、水から電子を取り出すためであり、それを行なっていたのがミトコンドリアのマトリックス(第13回、図5)という場であることを話しました。樹木の根も人間と同じです。生涯暗闇の土の中で生き続けられるのも(根系が生きるには暗闇である必要はなく、施設園芸の水耕栽培で分るように日光に曝されても構いません)、樹冠から転流されてくる糖分に依存した酸素呼吸でATPもNADPHも作れたからです。そうすると問題は、私達動物や夜の葉はどのようにして生きるために必要なATPやNADPHを、その後になって作ったのかですね。今回は、ミトコンドリアのマトリックスで水からどうして電子を取り出すのかが当面の宿題となりました。
ミトコンドリア中のクリステこそATPを生産する水力発電所です。
酸素呼吸の仕組み
強い太陽光に曝されている葉緑体で、大量の水を分解して電子を多量に取得できるためにATPとNADPHの両方を一挙に創り出せたのです(第4回を復習)。一方ミトコンドリアでは、太陽が生産してくれた有機物を用いての水からの電子取得ですから、ATPの生産だけに限られます。また、ミトコンドリアは細胞周囲に酸素分子がある時だけATP生産に働き出す細胞内器官でした。図5では炭水化物が解糖系で次々にピルビン酸にまで分解されてミトコンドリア内部のマトリックスに進入して来て、水分子をクエン酸回路に付加しながら回転させ、それに加わる種々の有機酸脱水素酵素の作用を引き出すために水からの電子をNADの還元に用いNADHを生成しました。ところで、その際に酸素分子も細胞膜を通じて進入して来て、ミトコンドリアの外膜に達しています。ただ誤解のないように少し付け加えて置きますが、前回冒頭で紹介したような酵母以下の小さな酸素呼吸もする細菌達にはミトコンドリアは無く、細菌の外幕に散在する脱水素酵素群が直接酸素を受け止めています。
ミトコンドリアで酸素呼吸をする生き物では、酸素によってその外膜周囲が好気的微小環境になり、一部の酸素分子は更に内膜で囲われたクリステを通り越してマトリックス中に入り込むようになります。このように電子の受け手である酸素分子がミトコンドリア周囲に達するようになって、初めてマトリックス内部でのクエン酸回路が実際に稼動し始めることになるのです。というのは先の種々の脱水素酵素と共役して回路が稼動させるには、還元されたNADHを再度酸化させて酸化型NADに戻すことによって、そこでの主要反応である酸化還元反応を進ませねばならないことは理解できますね。つまり、クエン酸回路が順調に回転するためにはNAD⇔NADH(⇔は可逆反応を示す)という反応と結び付くことが必須条件だったのです。そのためには、NADHに渡された水由来の電子の受容体としての酸素が必要であり、その酸素に電子を手渡す過程が酸素呼吸となります。
酸素呼吸での電子の伝達経路は電位差を利用した発電機
そうして、このNADHの酸化に際して生きるに必要なATPの生産が起こるのですが、どのようにして生産するかです。ATPはその前駆物質であるADPに無機リン酸(Pi)を結び付ける反応で生産されるので、NADHに蓄えられた電子とはADPをリン酸(Pi)と結び付ける(ADP+Pi→ATP)役割を果たすことになります。この反応を1回行なって1個のATPを生産するには少なくともおよそ0.3V(ボルト)の電位差(約13 kcalキロカロリーに相当)を必要としますが、NADH自体の酸化還元電位はおよそ-0.32Vと最終的な電子受容体酸素の酸化還元電位(+0.82V)との間には、1.14Vもの大きな電位差が生じます。となると1個のATP生産におよそ0.3Vほどあれば良かったわけですから、NADHの電子を酸素の還元(水の生成)までの総電位差を考えれば少なくとも3個のATPを生産できることになります。それが起きているのはミトコンドリア内膜上の内膜粒子です(図5)。ちなみにこの電子の伝達経路でのATP生成過程を酸化的リン酸化と言って,光合成に際して光のエネルギーでATPを多量に作った場合の光化学的リン酸化反応と区別した呼び方をしています。光合成の場合の水力発電所では水から獲得した電子を揚水しての揚水発電所(夜間に余った電力を用いて河川水をダムに戻す水の再利用発電所)に例えましたが(第5回、図3)、酸素呼吸での電子伝達経路では普通の水力発電所のように発電機を高低差という位置のエネルギー由来の水力を利用して回転させているように、まさにNADHと酸素間の電位差を利用して発電機を回しているのです(図6)。
|
酸素呼吸は効率的なATP生産システム
そこで、出発点となる6個の炭素から成る1個のグルコース分子から酸素呼吸で形成される総ATP数を嫌気的呼吸の効率と比較するために計算してみましょう。グルコースの酸化過程は解糖系(無気呼吸)→クエン酸回路→酸化的リン酸化と進み、水から取り出した電子を酸素分子に受け止めて貰って完全燃焼して、木材が燃焼した時と同様に二酸化炭素と水の排出で終わることになります。最初の段階で2ATP、次の段階で2ATPを、最後の過程で3x3x2=18ATPを生産するので、総計は18x2=36ATP+2ATPで38個ものATPを生産します。無気呼吸では2個しか作れませんから酸素呼吸は19倍もの大量のATPを生産したことになります。1個のATPはおよそ7キロカロリー程の熱量になりますから、1個のグルコースから266(7x38)キロカロリーもの熱源を得ることが出来たのです。こうした効率的なATP生産様式を獲得できたことで、多様な生命の進化が進むことになりましたが、酸素の二面性を忘れてはなりません。生命にとって有害であった酸素を、進化の過程は有益なものに変えましたが、いずれ私達の命自体も酸素があるが故に燃え尽きて死を迎える運命にあるのです。
酸素は鉄に乗って運ばれる
最後に大事なことを付け加えておきます。これらのエネルギー生産に関わる葉緑体でもミトコンドリアでも電子の流れには鉄が欠かせないと言うことです。光合成にはマグネシウムが必要ですがそれは葉緑素の構成元素となって、光を捕捉するためのものでしたが、葉緑体中にも鉄が含まれていなければATPを作れないのです。全ての生き物では、鉄を含んだタンパク質の酸化還元と共役してADP+Pi→ATPの反応を進めることができるのです。私達の場合には、身体の各所の細胞に酸素を運ぶために赤血球を用いていますが、中では鉄が酸化した形を取って酸素を運んでいるのです。錆びると鉄が赤くなることは皆さん知っていますね。
これまでの話で分るようにエネルギーだけでは命の営みは出来ません。問題はATPに見合った還元力NADPH等の供給があってこそ生命が営まれるということです。酸素呼吸で多量にATPを供給できたとしても、それだけでは生きられません。次回からは題目を変えて、動植物がどのような共通の仕組みで生きているのか考えましょう。
|