富士山と 全国各地の350山以上あるといわれるふるさと富士山を
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浮世絵から見た「ふるさと富士山」

14・6 平塚富士(ひらつかふじ) 高麗山(こまやま) 168m   中郡大磯町高麗(こま)



歌川広重「東海道五拾三次之内 平塚 縄手道」

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   飛脚と空駕籠を担いだ駕籠かきがすれちがう東海道の先に、花水川に架かる花水橋が見える。その背後にまるで富士を従えるかのように高麗山が特徴あるこんもりした山容を見せている。
 高麗山は神奈川県の平塚市と大磯町にまたがる大磯丘陵の東端にあたり、標高168メートル。7世紀ごろ、この山側一帯に高句麗からの渡来人が集落をつくったのが名称の由来とされる。江戸時代まで高麗寺という寺院が山中にあり、神域として保護されたため、多種多様な自然の宝庫となっている。県の天然記念物に指定され、「21世紀に残したい日本の自然100選」にも選ばれている。

 大磯の海岸に沿ってちょうど屏風をめぐらしたように低い山並みが連なっている。百五十メートルから百八十メートルぐらいのごく低い山塊だが、海からの温暖な潮風の吹きだまる山肌はうっそうとした密林になっている。とくにその東の端の高麗山は、いまも海側の南面に原生林を残している。
 臨海性の常緑樹木といい、たぶ、あらかし、すだじい、くすなどの巨木が高い梢をからませて天をおおい、昼なお暗い森林である。岩盤の露出した急斜面を辿ればたちまち山気が身にしみ、老樹の霊があたりにたちこめるような原始の山である。
日本交通公社出版事務局、堀文子著、「堀文子画文集 花」より

 高麗山がいつからどのような理由で平塚富士と呼ばれるようになったのかは、他のおらが富士と同様に定かではない。富士と名づけられる一つの側面として山のもつ霊性が考えられないだろうか。画家の堀文子は自分の住む高麗山の霊性をたびたび語っている。山すその土筆の草原に無垢のままの太古の息吹がこもっているとも記している。
 かつて日本人の間で天寿をまっとうした死者は、西方十万億仏土の彼方の極楽浄土へ行くのではなく、近くの「お山」へ行くと考えられていた。祖霊となった霊魂は盆や正月に山から降り子孫たちを守り、そしてこの世に新たに生まれる赤子に宿る霊魂として生まれ変わるとされた。この永遠に繰り返される人間の生と死の環を見守るものが「お山」であった。日本人にとって山とはそういう存在であり、富士山は日本人にとって最大の霊山であった。高麗山を平塚富士と名づけるのは、日本人のそうした精神的背景のなかで、極めて自然なことと思われる。

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16・10 平尾富士(ひらおふじ) 平尾山 1.156m   佐久市上平井



歌川広重「木曾海道六拾九次之内 小田井」

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   高原をわたる秋風にススキの穂がゆれる日暮れ近く、「本堂造立」と染めた幟をもった勧進僧と3人連れの巡礼が行き交う。勧進僧は諸国をめぐって本堂建立のための浄財を集めた。笈(おい)を背負い「同行三人」と書かれた笠をかぶった巡礼は、心願により聖地・霊場をめぐる者。親族を亡くしたり眼病を患うと巡礼に出る者があり、赤子を懐に抱いた先頭の男も、子の母を亡くしたのだろうか。
 一面のススキの原は中山道・小田井の宿場を出た先の金井が原、この旅を住みかとする漂白の人たちが醸し出す物哀しい情景を見守るようにたたずんでいるのは平尾山である。
 平尾山は佐久平を一望に見渡す古い火山で、平尾山・白山・秋葉山より成る。戦国時代、平尾氏の平尾城が秋葉山にあり、平尾氏は武田・村上・徳川の三代に仕え戦火の中を巧にくぐりぬけたという。平尾の語源はアイヌ語の岩石の生ずる所という意味のピラオイとされる。現在、山頂には木花聞耶姫(このはなさくやひめ)を祀った富士浅間神社があり、頂上からの佐久平と浅間山の眺めが素晴らしい登山コースとして市民に親しまれている。

 信濃なる、浅間の岳に立つ煙、浅間の岳に立つ煙、遠近人(おちこちびと)の袖寒く、吹くや嵐の大井山、捨つる身なき伴の里、今ぞ憂き世を離れ坂、墨の衣の碓氷川、下す筏の板鼻や、佐野のわたりに着きにけり、佐野のわたりに着きにけり。
謡曲「鉢の木」より

 平尾山は鎌倉時代の大井庄にあり、そこの最も高い山で大井山とも呼ばれていた。佐野のわたりで佐野源左衛門と出会うまでの、修行僧の姿で遍歴する最明寺入道時頼の行程が簡潔に歌われ、浅間山、供野、離山、碓氷川、板鼻と並んで「吹くや嵐の大井山(平尾山)」が取り上げられている。当時からこの土地に欠かせない景物だったことがうかがえる。
 ふるさと富士の名称がいつ、どこで始まったのかは、今後調べるべき課題だが、富士山への敬愛から、富士とたたずまいが似ている、土地の人から親しまれている山である等々の理由により自然発生的に始まったことが推察できる。それらの条件を満たしている平尾山がかなり早い時期から平尾富士と呼ばれたことは、平尾山ではなく、平尾富士と記されている地図類が多いことからもわかる。ふるさと富士の名称が単なる愛称ではなく、山名そのものに取って代わるほどの市民権を「平尾富士」は得ているのである。


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31・3 伯耆富士(ほうきふじ) 大山 1,729m   鳥取県西伯郡大山町大山



歌川広重「六十余州名所図会 伯耆 大野 大山遠望」

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 しとしと降る雨に濡れながら田植に勤しむ農民たち。田植は入梅を開始の目安とし、半夏生のころまでに終わらせるというのが江戸時代の農民の通念であった。白く表された雨脚は、梅雨であり、恵みをもたらす慈雨でもあった。広重は雨を胡粉で摺りだし、そぼふる季節の雨の柔らかさを表現している。雪月花などの景物を通して、日本人の根源的な郷愁を感じさせるのが広重風景画の特質だが、なかでもこの作品は、雨に煙る風景から醸し出される抒情性が隅々にまでしみわたり、シリーズ中随一と評価されている作品である。  農民たちの彼方に姿を見せているのが大山。画題から大野より眺めた大山となるが、大山周辺に大野という地名はない。画面に見るなだらかな山容から、西方より眺めた大山と推定できる。大山は長い火山活動によって形成された山で、山容は同じ山とは思えないほど変化に富んでいる。北方、南方は北壁、南壁と呼ばれる急崖、東方は峨々たる壮年期の山形を示し、そして西方から見える山は、やさしく優美なフォルムを形造り、伯耆富士と呼ばれる所以である。事実、冠雪の大山は、富士山に似ているという点からいえば、ふるさと富士の中でも一、二を争うのではないだろうか。
 似ていると感じさせるのは、山容だけではない。信仰や伝説、人間が山に刻んだ歴史に培われたその山のもつ風格からもきている。古来より神の宿る霊山として崇められ、古代から中世にかけて大山は智明権現(本地地蔵菩薩)を祭る大山寺を中心に修験の道場として栄えた。近世には雨をもたらす水神の坐す山として、中国地方の農民の信仰を集めたのをはじめとして、中国地方の山岳信仰のメッカとなっている。大山が富士山、富山の立山、長野の御嶽山と並ぶ日本四名山に数えられているように、仰ぎ見るお山が気高く美しいと感じるとき、私たちは山と人との深い関わりの歴史を見ている。

 疲れ切つてはゐるが、それが不思議な陶酔感となつて彼に感ぜられた。彼は自分の精神も肉体も、今、此大きな自然の中に溶込んで行くのを感じた。(中略)謙作は不図、今見ている景色に、自分のゐる此大山がはつきりと影を映してゐることに気がついた。影の輪郭が中の海から陸へ上がつて来ると、米子の町が急に明るく見えだしたので初めて気付いたが、それは停止することなく、恰度地引網のやうに手繰られて来た。地を嘗めて過ぎる雲の影にも似てゐた。中国一の高山で、輪郭に張切つた強い線を持つ此山の影を、その儘、平地に眺められるのを稀有の事とし、それから謙作は或る感動をうけた。
志賀直哉「暗夜行路」より

 出生の秘密や不義に苦悩し、自我のいらだつような葛藤にさいなまれた主人公が、やがて自己を超えた大いなるものに身をゆだねることで救いが訪れる、その最後の大山での場面である。自然描写としても優れていると評価されている。この最後の主人公の「感得」が自然の中だったらどこでもいいかというと、「輪郭の張切った強い線」を持つ大山でなければ、この「或る感動をうける」最後のシーンは成立しなかったのではないかと思わせるほどの存在感を感じさせる。
 山がそこにあるのはまったくの偶然である。人為の及ばないところでそれが成立しているからだ。しかし大山がそうであるように、富士山がそうであるように、もしそれが突然ないと告げられたら、私たちはその不在がもたらす空白感を何によっても埋めるすべを知らないだろう。それだけ山は私たちの精神ににじり寄っている。「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」とういう仏教の言葉がある。生物だけでなく山や川も生き物であるという考え方で、それは仏教が生まれたインドにはなく、日本固有の思想だという。この原稿の目的は浮世絵を通して「ふるさと富士」とは何かに何らかの照明が当てられれば、ということだが、それは日本人にとって「富士山」とは何か、「お山」とは何かにも通じる。日本固有の精神的風土を掘り下げるというところに一つの解答があるのではないか、浮世絵の大山はしきりにそう語りかけてくるような気がする。


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24・2 都富士 比叡山 848m  滋賀県大津市坂本本町 京都府京都市左京区八瀬秋元町



歌川広重「近江八景之内 矢橋帰帆」

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 鳰(にほ)の海と呼ばれた日本最大の湖、琵琶湖が眼前に広がる。手前右が琵琶湖東岸の矢橋、現在の草津市矢橋町。夕刻、矢橋の船着場に続々と帰来する帆船が描かれる。中世から近世にかけて琵琶湖沿いの名勝に選ばれた近江八景の一つである。画賛は「真帆かけて矢橋にかへる舟はいま うち出乃はまをあとの追風」。打出の浜とは画面左、大津市の琵琶湖南西岸の古名である。そしてその彼方に比叡山が麗姿を見せている。
 比叡山は京都市と大津市の境界をなす山地で、東の大比叡と西の四明ヶ岳の二峰に分かれる。山頂から東は琵琶湖と湖東、湖西方面、西は丹波高地から京都市内を越えて山城や大坂方面まで望むことができる。琵琶湖国定公園の一部で、寺域のため80種の鳥が生息するなど自然が濃厚に残っている。世界文化遺産に登録されたことは記憶に新しい。

 悠々たる三界は、純(もっぱ)ら苦にして安きことなく、
 擾々(じょうじょう)たる四生は、唯患(ただうれい)にして楽しからず。
 牟尼(むに)の日久しく隠れて、慈尊の月未だ照さず。
 三災の危きに近づき、五濁(ごじょく)の深きに没む。
 しかのみならず、風命保ち難く、露体消え易し。
最澄「願文」

  比叡山は古来より神が祀られ、山岳信仰の対象となっていたが、延暦4年(785)、最澄が現在の根本中堂のところに数え年19歳で草庵を結んだのが、天台宗総本山延暦寺の始まりであり、平安京北東の鬼門を護国鎮護する霊山として、今日まで法灯を伝えている。上記願文は最澄が山に籠もった後に書かれたもので、世界は苦しく憂いに満ちていて、どんんな人間でも死ぬ運命にあり、人生ははかないと述べた後、最澄は自分は愚かで何もできない人間だが、仏教の真理を体得するために不退転の心願を立てると決意を表している。
 この最澄や空海によって、奈良時代の都市仏教から山を根拠地とする山岳仏教に替わる。昔より神が住み、死者の霊がいるという山へ仏教が入ることによって、古来の日本人の信仰と仏教が融合することになる。特に最澄は、生涯山を愛し、山を住処とした。修行した人間だけが悟りを得るという南都仏教との論争のなかで、すべての人間に仏性があると主張し、日本化した仏教の形を模索していく。そして最澄とその後継者によって、山や川、草木などもすべて仏性をもつ「山川草木悉皆成仏」(さんせんそうもくしつかいじょうぶつつ)という天台本覚思想が確立される。
 その後の歴史を創る、若き日の法然、親鸞、道元、日蓮などはみな比叡山に登った。この天台から発展した本覚思想を山で学び、それを土台にそれぞれが革新的な仏教思想を構築したのである。それは仏教だけではなく、私たちの精神風土の基底にも脈打っている。私たちが富士山やふるさと富士などの山を眺め、感じ、考える意識のなかに、最澄が残したものが底流として流れていることを、都富士は教えてくれているのかもしれない。


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8・14 筑波富士 筑波山 877m  茨城県つくば市



歌川広重「名所江戸百景 隅田川水神の森真崎」

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 画面右上から垂れ下がる花弁は、桜の季節の最後をしめくくる八重桜で今が盛り。八重桜の下に広々と平和な眺めが広がる。眼下に流れるのは隅田川、右下は水神の森(現墨田区堤通2丁目)、隅田川の水の神を祀る神社である。画面下の道を左に行く人々は、画面には見えないが、道の先の船着場から対岸の橋場町へ渡る橋場の渡しを利用するのだろう。隅田川の上流の先に、双耳峰の特徴ある山の姿をくっきり浮かびあがらせているのは筑波山である。
 江戸っ子にとって目を西に向ければ富士山。東に転じればこの筑波山の姿が目に入った親しい山であった。ちなみに広重晩年の代表作「名所江戸百景」119枚揃のなかで、富士が描かれているのが19枚、筑波山は11枚である。天下の富士山に対して数の上でもそうそうひけをとってはいない。山の容姿の評価でも負けず「西の富士、東の筑波」と並び称された。この2山は伝説の昔から因縁があり、それは『常陸国風土記』に記される。神々の祖である神祖尊(みおやのみこと)に対して駿河の富士の神がつめたくあしらったのに対照させて、丁重に奉仕した筑波神を神祖尊は喜び、富士山は一年中雪に降り込められ、容易に近寄れないのに対し、筑波山は人々が登って歌舞や飲食の楽しみが永遠に絶えないだろうと記されている。
 風土記側の身内の身びいきを差し引いたとしても、古代から楽しげで解放された筑波山のイメージは定着していたようだ。それは歌垣(うたがき)に象徴される。歌垣とは農閑期の行事で近隣から多数の男女が集まり、歌を交わし、舞い踊り、男女が自由に交わるという習慣であった。万葉集にその歌垣への期待で興奮する気持がおおらかに歌われている。平安時代以降も「筑波嶺」「筑波の山」は歌枕としてもてはやされ、男体山、女体山2峰を有する山容と歌垣の連想から、都の歌人たちは筑波を恋の山として歌った。「筑波嶺の峯より落ちるみなの河恋ぞつもりて淵となりける」(陽成院「後選和歌集」)。また筑波は朝は藍、昼は緑、夕は紫とさまざまに表情を変える美しい山で、紫峰の別称があった。「ゆく春やむらさきけむる筑波山」(蕪村)。

 さあさあお立ち合い、ご用とお急ぎでない方は、ゆっくりと聞いておいで。さてお立ち合い。手前ここに取り出したるは四六のがま。四六、五六は何処で見分けるか。前足の指が四本、後足の指が六本、是を名付けて四六のがま。此のがまの棲む所、常陸の国は筑波山の麓、東山から西山に生えている大葉子という薬草を食らって育ちまする」  
(筑波山名物がまの油口上)

 がまの油もこの口上も江戸時代に由来するものだが、実際に筑波名物となって世に出るのは戦後になってからで、さびれた筑波山が新たな観光客を呼ぶために考えられたものだった。これは大成功し、筑波山といえばがまの油となり、筑波山に新たな風景がつけ加えられた。(浜日出男「観光のまなざしと風景〈筑波山名物がまの油〉の誕生」慶應義塾大学出版会『風景の研究』所載)これはふるさと富士がどのような過程から生まれたかという一側面で同じことがいえるのではないだろうか。○○山を○○富士という名称で呼ぶことによって、その山は新たな風景がつけ加えられる。富士山という強力な共同幻想を観光に利用する例である。そのように考えたのは「筑波富士」はその対極にあると思ったからである。古代からの因縁の相手のせいか、富士山の名称を筑波山側は積極的に考えていないように見える。事実、筑波山に関する事典類をあさっても、筑波富士とも呼ばれるという解説は1行もなかった。管見の範囲で唯一見た出典は、富士市の「ふるさと富士写真館」というサイトで、富士市の黒川道雄さんという方が写真とコメントを寄せて、「真壁町など北麓の人々の間で、古くから〈筑波富士〉と呼び親しまれているそうです」とある。真壁町は現在合併して桜川市となっているが、筑波山がもっとも美しく見えるという茨城県西部にある。筑波富士は、観光とも町おこしとも関係なく、毎日のように仰ぎ見る山の美しさに自然に富士を連想して、いつしか自然発生的に呼びならわすようになったふるさと富士の例であろう。

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