東京に生まれてから今まで、私は富士山とずっと一緒にいるように感じています。しばらくぶりで富士山を見ると、心の底からほっとします。富士山の存在は、私の心身の中に入っているようにも思えるほどです。住まいの最寄り駅のホームからは、天候によっては、いつでも富士山を見ることができますが、最近になって、くっきりと空に映える富士山を見ることが減ったのは、本当に残念に思います。それでも、お正月には、今でも、真っ白に輝く富士山を見ることが多いので、毎年、楽しみにしています。お正月といえば、数年前、初めて箱根の強羅でお正月を過ごしたときのことです。「富士山はどこにいるのかしら?」と探してみても見つかりません。見えないはずでした。全体が見えないほど、富士山は、すぐそばに居たのです。見上げると、そこには、これまでに見たことのない、大きな大きな富士山がいて、私は、富士山のふところに抱っこされているような感じがしました。この時の富士山の、とてつもない大きさと抱っこの感覚は、今でも、突然に蘇ってくることがあります。しばらくぶりで富士山を見たとき、心底ほっとするのは、この抱っこの感覚があるからかもしれません。
飛行機を利用するときは、富士山が見える側の座席を希望することにしています。見るたびに、富士山は異なった姿を見せてくれるので、それがまた楽しみなのです。ひつじ年の新年に見た富士山は、白い雲が、ふさふさとした巻き毛のように富士山を取り巻いていて、かわいいムクムクの羊のようでした。見て思わず微笑んでしまいました。「今年は、この富士山のように、ふくよかでやわらかな自分でありたい。」と思いました。ときには、灰色の雲が帽子のように富士山頂にかかっていたり(ある時は斜めに)、雲が、あっという間にみるみるとはけていって、突然、富士山の姿が力強く現れるのを見て感動し、力が湧いてくるように感じたりもします。飛行機の窓から見る富士山で、私が特に好きなのは、真っ青な空に浮かぶ、真っ白な富士山です。その富士山を見ると、いつも、言い尽くせない感動が、心の底からこみあげてきます。
2000年の夏の終わりの夕方には、黒い富士の両脇に、縦に細い2本の黒雲が立っていて、柱のように陸と空をつないでいました。私と夫は、飛行機の窓に顔を押しつけて、この不思議な富士山と雲の姿に見いっていました。その日私たちは家族と一緒に過ごし、私の父の満面の笑顔におくられて、飛行機に搭乗したのでした。そして、その日、私の父は、就寝したまま翌朝に帰天しました。突然のことでした。この世の最期に見せてくれた父の満面の笑顔とこの日の富士山の姿は、私の心の中に、いつも一緒に在ります。父の帰天に富士山は共にいた、と私は感じています。
よろこびも悲しみも見守っているかのように、天にそびえる富士山の姿を見ると、気高く、すがすがしく、なつかしい気持ちがこみあげてきます。いつもそのような心で歌をうたっていきたいと思います。一回として同じ富士山には会えませんが、一期一会の感慨と共に、強羅での「富士山に抱っこ」の感覚を大切に、これからも富士山を見ていきたいと思います。
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