田部井 淳子
(女性で世界初のエベレスト登頂者
NPO法人日本トレッキング協会会長)
日本人なら富士山に登ろう!
東海道新幹線に乗って、列車が静岡県内に入ると、なんとなく窓の外の景色が気になりませんか。そう、富士山です。私は、車窓から富士山の美しい姿が見えると、「やったー、今日は何かいいことがありそう」と、ちょっと得した気分になります。飛行機でも、「今、左側に富士山が見えます」とアナウンスがあると、ついつい顔を窓にくっつけて、じっとその姿を追っています。みなさんも、一度はそうした経験があるのではないでしょうか。
富士山に登ったことがある人は、そんなとき、きっと山頂からの素晴らしい眺めと、富士山でしか味わえない3776mという高度感、下界とは違う空気感、そして、日本でいちばん高い山の頂に立ったことの達成感や満足感を思い出しているはずです。
自分の力で長い時間歩き続けて山の山頂をめざす、それは自分が生きていることを実感するひとときであり、生きていることの喜びを心から味わえるひとときです。そして、頂上に立ったときの満足感、それはもうなんともいえない大きな手ごたえを実感できるはずです。日本一の山・富士山であれば、なおさらです。
最近は国内の山に登る機会が増え、私にとって富士登山は毎年の恒例行事のようになっています。それでも、毎回新しい発見があります。「あっ、ここからはこんな景色も見られるんだ。」と足を止めることもしばしばです。また、毎年登る富士山は、私の健康のバロメータにもなっています。「うん、今年も登れた、まだ大丈夫かな」などと思いながら、無事に山頂に立てたことの喜びを味わっています。
今から十数年前、富士山のごみやし尿処理の問題が大きな話題になりました。そのために、世界遺産登録のための推薦が見送られたことをご記憶の方も多いと思います。しかし、その後、多くの人たちが富士山のクリーン活動に参加し、富士山は生まれ変わりました。環境に配慮したトイレがつくられ、ごみを持ち帰るだけでなく、落ちているごみを拾う登山者も増えました。私たちHAT-J(日本ヒマラヤン・アドベンチャー・トラスト)も環境保護を訴え、ごみはもちろん、トイレットペーパーも残さず持ち帰る運動を続けてきました。そして、今ではごみを拾おうにも、落ちているごみを見つけるのが大変なくらいです。富士山は本来の美しさを取り戻しつつあります。
山に登っている人はもちろんですが、登山にあまり関心がない人でも、「富士山に登ってみたい」と思っている人は多いと思います。そうそう、つい先日も、かっての同級生たちから「一度でいいから富士山に連れて行って!」と頼まれて、「よし、今年も行くわよ!」と決めたところです。
富士山には登ってみたいけれど、やっぱり不安という人もいると思います。確かに、標高3776mの富士山は、身近な里山ハイキングに出かけるのとはわけが違います。それなりの装備も必要です。いきなり富士山に登ることをお勧めしようとは思いません。しかし、登山道もしっかりと装備されていますし、途中には山小屋も数多くあります。夏のシーズン中であれば、難しい技術も必要ありません。ちゃんと準備をして、いくつかの大事なポイントをおさえておけば、初心者でもけっして登れない山ではありません。
日本人なら一度は富士山に登ってほしい。そして、心地よい風、澄み切った大空、眼下に広がる素晴らしい眺め、普段の暮らしでは出会えない刺激的で心豊かな時間を、みなさんにもぜひ体験していただきたいと願っています。そのために、この本を書くことにしました。
どんなに素晴らしい自然も、自分で出かけなければ、その素晴らしさを実感することはできません。みなさんも、富士山への最初の一歩を踏み出してください。
みんなが大好きな山、富士山
日本の最高峰・富士山(標高3776m)は、誰もが一度は登ってみたいと思う山です。その人気は年々高まっています。環境省関東地方環境事務所の調べによると、毎年7月1日〜8月31日の2ヶ月間に富士山八合目でカウントした登山者者の数は、2005年には約20万人でしたが、2006年が約22万人、2007年が約23万人、2008年には約30万人、天候が不順だった2009年も29万人以上だったそうです(各登山道に設置した赤外線カウンターによる自動集計)。
富士山に登る人を見ていて印象的なのは、若い人たちが多いということ。特にここ4、5年に増えています。登山というと熟年層をイメージする人が多いかもしれませんが、最近は、北アルプスの涸沢や白馬などでも若い人たちをよく見かけるようになりました。しかし、どこよりも多いのが富士山です。環境や自然が注目されていることも、若者たちが山に目を向けるきっかけになっているかもしれません。大学生や職場のグループ、カップルや親子連れなど、本当にたくさんの若い人たちに出会います。「本格的な山登りは、これが初めて」という人が多いのも、富士山の特徴といえるでしょう。
外国人がいちばん多いのも富士山です。海外に出かけて、日本について知っていることを聞いてみると、まず返ってくるのは自動車や電器メーカーのブランド名、そしてそれらと同じくらい多いのが「フジヤマ」、「マウント・フジ」です。日本の総理大臣の名前を正しくいえる人には、ほとんど会ったことはありませんが、富士山を知っている人は、けっこう多いのです。もちろん、登山が好きな人は、みなさん富士山を知っていますし、「日本に行ったら、ぜひ登りたい」といいます。
私は海外に出かけるとき、ちょっとしたお土産として、よく富士山のポスターを持っていきます。みんな、喜んで受け取ってくれます。富士山の山容に美しさ、端麗さを感じるのは、日本人だけではありません。世界中の人たちが、その美しさを認めていると私は確信しています。
富士山という山は、本当によくできた山だと思います。どこから見ても左右対称で、広い中央火口がある山頂から、穏やかな曲線を描き裾野へと続いています。これほど雄大かつ端正に整った山は他にありません。しかもまわりに高い山がないので、とにかく目立ちます。その上、日本のほぼ真ん中にあります。これで日本一の高さですから、何もいうことはありません。いや、さらにいうなら、冬はまっ白に雪化粧し、夏はすっかり雪が消えて雄々しくそびえ立つ、そんな季節ごとに異なる姿を楽しませてくれるなんて、なんとも心憎いほどの演出です。
富士山がどれほど私たちにとって印象深い山であるかは、日本で2番目に高い山と比べてみればよく分かります。みなさんは、それが何という山かご存知ですか。富士山の北西60kmほどに位置する南アルプスの北岳です。標高は3193m、日本百名山のひとつにも数えられる素晴らしい山です。登山者には人気の山ですが、一般的な知名度では、富士山に遠く及びません。それというのも、富士山が多くの人々の目にとまる独立峰であるのに対して、北岳は人里離れた南アルプスにあり、しかもすぐ隣には標高3189mの間ノ岳(日本第4位)をはじめ、周囲に高峰が連なっています。見た目にも、その高度感が実感しにくいのです。
それにしても、富士山は第2位の北岳よりも500m以上高く、ダントツの第1位。間違いなく、日本一の山に呼ぶにふさわしい山です。
『日本人なら富士山に登ろう! 初心者のための安心・安全登山術』
(アスキー新書)
著者:田部井淳子
発行:株式会社アスキー・メディアワークス
2010年7月 2日掲載
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