富士山はプロ・アマチュアを問わず、長きにわたりカメラマン達を魅了し続けている。毎年、冬になると撮影スポットと言われる場所にはカメラマン達が整然と並び、競うように撮影している。その様からは、写真を通じた富士山ファンの熱気さえ感じられる。岡田紅陽でさえも、これほどまでに多くの人々が富士にレンズを向けるようになるとは思ってもいなかったのではないだろうか。
岡田紅陽、本名岡田賢治郎は明治28年(1895))新潟県中魚沼郡中条村(現十日町市)に生まれた。岡田家は代々雅号を持ち山水画を描く芸術一家であったとともに、紅陽の父龍松は衆議院議員となり、また兄正平は新潟県知事になるなど政治とも深く関わりのある家系だった。そんな中、賢治郎は早稲田大学に進みそこで初めてカメラと出会い、また富士山と出会った。まだまだカメラは高価で学生の賢治郎には手が届かなかったため、友人のカメラを借り、大正3年(1914)に初めて富士山の写真を撮った。河口湖畔産屋ケ崎から富士山を望んだ瞬間、その美しさに言葉を失い撮影に没頭した。その時、賢治郎が見た富士山は日本人なら誰もが思い描く、富士山と逆さ富士、そして桜だった。
その後、賢治郎は懸賞募集で入選を繰り返し、その賞金で念願の自分のカメラを手に入れた。自分のカメラで富士山の撮影を始め、大正5年(1916)には忍野村で撮影を行っている。この頃、紅陽は写真で富士山を征服することを決めた。しかし、大学を卒業した時には兄から就職を世話され神田の米穀取引所で働くことになったが、1年も経たないうちに岡田家の同族により設立された岡田物産の大阪支店長となった。しかし、それもすぐに倒産となってしまった。これが契機となり、賢治郎はいよいよ写真で生計を立てることを決めた。東京府の専属写真師となり、それとともに各地の観光写真の依頼が増え、富士山撮影に情熱を傾けた。
ようやく写真家としての生活が落ち着きはじめたが、大正12年(1923)9月1日関東大震災が起きた。暗室に閉じ込められたものの、運良く助かった賢治郎は東京の惨状、横浜、小田原、箱根などの惨状を11日間に渡って撮影し続けた。海外の新聞によりこれらの写真が使用されたため、岡田紅陽の写真は世界中の人々の目に触れることになった。この頃に賢治郎は岡田紅陽と名乗り始めるようになった。それは大震災により、荒れ果てた街を失望感に苛まれながら撮影に明け暮れていた時、富士の山肌が紅に輝き出した荘厳な姿に感動し「紅陽」の文字が浮かんだからと言われている。
紅陽の活躍は海外でも知られる所となり、外務省から「富士山と日本の景勝地の写真を紹介したい」との依頼を受け、大正13年(1924)から3年間に58回にもおよびアメリカ・イギリス・ドイツ・イタリア・スイスなどの主要都市で日本を紹介する写真展を開催し、「フジヤマ」は世界の人々を魅了した。
昭和に入り、紅陽の活躍はより目覚しいものとなった。国立公園の制定にあたり、北海道から九州まで全国を巡り日本各地の景勝地を撮影している。これらの写真がベースとなり発行された国立公園切手シリーズは、現在でもコレクターの間で人気の高いものとなっている。
こうして、様々な撮影を行いながらも紅陽の気持ちは富士山に向かっていた。富士山を「富士子」と呼び、撮影に出かける際には「富士子に会いに行く」とまで言っていた。しかし、世の中は次第に戦争へと向かい、大空襲によってこれまで撮りためた3万枚にもおよぶ乾板を失ってしまった。戦争が終結した時、紅陽は「やっと空襲におびえることなく富士子に会える」と言ったという。
後に紅陽は富士山写真集4冊目「富士」の中で富士山についてこう綴っている。(※註1)
「正直のところ私はカメラも好きだがそれよりもまして富士山それ自体が大好きなのである。これが富士狂にした唯一の動機ともいえよう。(中略)14年前(終戦当時)ごろまでは主として彼女の外貌の美しさ、秀麗の姿に打ち込んできたが、近頃になって彼女の内面、心の良さに魅せられたからであろう。(中略)全く私は手に負えない気むずかしい恋人をもったものである。」と若い頃に抱いた富士山を征服するという気持ちから、富士山への愛着とともに畏敬の念を抱くようになっていった。
こうして紅陽は戦争で失ってしまった乾板を取り戻すかのように、再び富士山の撮影に取り組むことになった。さらに紅陽の活躍は富士山を通じ幅広い分野へとおよび、日本観光写真連盟会長への就任、戦後初の自然保護団体「富士の会」の設立などに参加した。そういった中で徳富蘇峰をはじめ、横山大観、川合玉堂、川端康成などとの交流を深めていった。
紅陽が撮影した富士山の写真は日本を代表する風景として、切手のみならず紙幣にも数多く採用された。現在の千円札の図柄も紅陽の撮影した写真がベースとなっている。
晩年の紅陽は自らの写真人生を振り返り、「大正3年から65年間、富士山を撮り続けてきた私だが、まだまだ富士山が大きすぎて撮りつくしていない。写真の原板にして38万枚を撮った中で1枚の快心の作がない。」と口癖のように言っていたが、昭和47年(1972)11月22日に惜しまれながらこの世を去った。
今でこそ富士山を撮るカメラマンは多い。岡田紅陽写真美術館のある忍野村にもシーズンともなると大勢のカメラマンがやってくる。道路事情や機材の進歩によって、気軽に富士山を撮影することが出来るようになった。それだけに、自分勝手によって「彼女」の機嫌を損ねないでほしい。また、何よりもまず岡田紅陽のように富士山を愛してもらいたい。
写真を通じ富士山に出会い、写真を超えて富士山を愛した岡田紅陽は、今でもこの富士山の裾野をカメラ担いで幸せそうに歩いているのかもしれない。
※註1:
「富士」 岡田紅陽 朋文堂 昭和34年4月10日
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