わたしと富士山


鳴沢村 村長  渡邊 建一

         

  私は、昭和五年、鳴沢村字富士山という字名のある村に生まれた。
  お山の雄姿も歴史も文化も、先人達のご苦労により今日があると感謝し、その誇りは後世に伝える義務と考えている。
  春夏秋冬と大自然と共に衣替えし、多くの動植物を育て、日本のシンボルとして今後も信仰や観光にも活躍する山だ。
  富士山はどの市町村からもそれぞれ良く眺められ、その美しさも様々である。大沢崩れ、宝永の火山、山頂の形等で変化するが、当村から望む北斎画く三峰の富士が一番富士山を表現したお山の姿でお似合いだ。
  古代、萬葉集にも詠まれ、小御岳噴火、古富士、新富士と三階建ての山であり、噴火の歴史が熱い恋歌として唄われ、不二の『奈留佐波』はその歴史と共に萬葉の碑に刻まれてあり、総合センターや紅葉台にも碑がある。
  先人達は広大な山麓にて天然資源を採取し、世の中に送り出したり利用もさせて頂いた。実に富士山は天賦自然の宝、無尽蔵の山である。
 徳川時代に山麓は大鷹の巣を守り、鷹狩りに使う鷹の子の供給基地であり、村では鷹匠の言葉は今でも使われ鷹匠の足を守る地下足袋のことを鷹匠の名称で呼んでいる。
  大きな丸太や林産品等々、地形を利用し軌道で吉田に運ばれ、その後江戸や京都に運ばれ利用されたようである。その他にも檜皮茸の材料、染色材料、薬品原料、茸類等数え切れない天然資源もあった。
 
科学文化も進み、今では利用される物は少なく、温暖化と共に自然の動植物も変化し、高山植物等の絶滅種もあると聞き残念だ。富士山は長い歴史の中で、日本の風俗習慣を何百万年も見続けているお山であり、噴火時代、古代、中世、近代と何でも知っている日本の物知りでもある。特に戦前、戦中、戦後の動きに富士山も驚いたり怒ったり呆れたりしていると思われる。
  自然は豊かで四季それぞれに変化し、緑と空気と水を供給してくれてはいるが、人類ほど身勝手で自然を壊すものはいない。利用出来るものは自由に享受しているが、一度壊した自然は元に戻すのはとても困難なことだ。誰れもが良いことと悪いことは解っていると思うが、一人一人が実行しなければ無意味だ。
  古代人の方が信仰心も深く、お山全体を神として尊び、日本武尊命も富士宮市山宮にお山自体をご神体とする山宮浅間社を祀り、駿河往還を歩行(かち)し人穴、天神峠を通って関東に入っている。富士山は信仰の山であり、河口の御師宅から村の道祖神を通り、ここで撒き銭をし白衣に六根清浄を唱えながら鳴沢登山道を一合目から頂上に向かった。
  近年はスバルラインの大部分も本村を通り、御庭・奥庭・五合目の眺めを堪能しながら頂上へと向かう。溶岩樹型、氷穴、白大龍王、弓射塚、片蓋山、五湖台、紅葉台の史跡名勝にスキー、ゴルフも盛んだ。 自分もお陰様にて頂上も、御中道巡りもその他天然記念物の数々を拝見して、大自然の素晴らしい造形美術館を探訪させて頂いた。麓の生まれに感謝し、これからも尚、十分に堪能していくつもりである。
  それに、なるべく多くの人々に知らせてやりたいと思い、機会あるごとに話をしたり、素人写真なども度々撮って、素晴らしさを紹介しているところだ。
  鎌倉殿の富士の巻狩、本土空襲の際のB29目標、富士登山競争、富士ヒルクライム自転車レースと変化しているが、富士は平和的利用が望ましいお山だ。
  麓の乱開発もあり、先の自然遺産は実現しなかったが、この度の世界文化遺産は是非とも実現しなければならないと、みんな一所懸命の努力でトイレ問題もほぼ解決のようで喜んでいる。
  近年、山日新聞社はじめ、企業の方々も自然環境を守る運動を進め、様々なNPO団体や野口健さん等ボランティア活動も盛んになりうれしい限りです。
  富士の国やまなしを元に、日本の富士から世界の富士になるよう一人一人が尚一層心を引き締めて取り組み、富士を讃仰する心を培い、大自然を守り育て、地球の温暖化防止を推し進め、雲孫の代までも引き継いでいくことが、地球上に住む人類の努めです。
  それにしても、鳴沢村は富士の腕(かいな)にいだかれた村だとつくづく思う。
  大室山は、厳しい寒冷地を鋤や鍬で耕して出来た力こぶのように見える。
  長い間、富士と共に生きてきた鳴沢村に住めたことを心より嬉しく思い安穏を祈念しながら擱筆します。

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