静岡県松崎町雲見の浅間神社にて
末広がりの富士山
畠堀 操八
(NPO法人シニア大樂
山樂カレッジ事務局長)
わたしが初めて富士山に登ったときの記憶はおぼつかないもので、……ボンネットバスで下山して宮上で乗り換えて、という部分しかない。茶色に変色した2万5000分の1地形図「須走」(1976)には「社神岳御古」のところに「バス停」と鉛筆書きされている。経路の書き込みによると富士吉田駅から歩いて登ったらしい。幸い高山病は発症しなかったようで、その後わたしにとって富士山は駆け上り駆け下りのゲレンデとなる。
神奈川県・藤沢の自宅を一番電車で出発して御殿場で始発バスに乗り継ぎ、須走口を登って御殿場口に下ってその日のうちに帰宅する。仕事を終えて浜松町のバスターミナルから高速バスで吉田口五合目まで上がり、そのまま登って頂上山小屋の脇でビバークし、御来光を拝んで下山して出勤するといったこともあった。
しかしいつのころからか、富士山は五合目以下に自然の魅力があることに気づくようになる。吉田口登山道の両脇には原生林が残されているし、御殿場口から森林限界をたどっていくとアサギマダラが乱舞する沢筋に出る。精進口登山道の大室山には巨樹林があるし、小富士から北に連なるコメツガ林も見事なものである。晩秋、船津口登山道を下っていくと落ち葉の絨毯で、標高によって黄金色・紅・白・わくらば色など、眼の肥やしになる。道に迷って(?)東富士演習場の真ん中を西から東へ通過したこともあった。そういった富士山とのかかわりのなかで一つの転機になったのは、ある新聞記事である。
麓からの登山が息を吹き返してきていて、表口では地元・村山の人たちの孜々営々たる努力によって「村山口登山道」が復活したというのである。
富士山最古の登山道の確立は、12世紀半ば、修験僧・末代上人が頂上に大日寺、麓の村山に大日堂を建立したことにはじまる。室町時代には村山修験の拠点として栄え、村山は「戸数数百軒」といわれるほどの門前町となる。しかし戦国武将・今川義元の麾下に入ったのが災いしてか、徳川時代を通じて落ち目となり、明治初年の廃仏毀釈では大規模な破壊を受ける。明治の末、1906年に新道ができて廃道となり、100年が経っていた。ということは後に知ることになるが、登山道は「未整備なので、地元の人でないと無理です」という結びの言葉が、わたしに火を点けた。よそ者が、登ってやろうじゃないか!
もっともすぐに取り掛かったわけではない。周辺調査を何回かして部分的にはルートを確認していたが、わたし自身の三ツ峠山での墜落事故などがあって本格的に取り組むまでに10年近くかかった。その間、現地はすっかり変わっていた。とくに96年9月の17号台風は富士山南斜面で1000ヘクタールの風損被害を出したといわれる。かろうじて開かれた古道はふたたび完全に封鎖されてしまったのである。
2003年7月5日午前8時、わたしは4リットルの水と1升瓶を担いで村山浅間神社(標高500m)を出発した。スギ・ヒノキの植林帯では、登山道の両側から間伐木が倒し込んであるから、跨いだり潜ったりアスレチック登山である。登山道が南北に延びている部分には日光が差し込むので、キイチゴ、サンショウ、タラ、ハリギリなど棘植物が密生している。難しいのは作業道と登山道の見分けである。左右の林相が同じであれば通じている道がどんなにしっかりしていても登山道ではない。左右の樹種・樹齢が違えば所有が違うから登山道の可能性が高い、ということは何回かひどいめにあって身体が覚える。
標高1000mを越えるとスズタケとの闘いとなる。笹を押し分けかすかな踏み跡をたどっていくと、倒木が行く手をふさぐ。丸太1本なら跨げばいいが、樹高20mの大木が枝付きのままルートに平行に倒れていれば、行方が完全に分からなくなる。密生するスズタケのなかに獣道や茸狩り道が入り乱れ、溶岩流の上に出ると踏み跡は完全に消える。
かくしてよそ者の挑戦は完全に失敗し、沢伝いに脱出する羽目になるが、中宮八幡堂(1250m)で秋祭りが行われることを知る。祭りに飛び入り参加して、村山の人たちの協力を仰ぐことになる。先に復活させた次の世代の人たちである。
倒木にぶつかると、何人かが猿か猪になって(枯れ枝の上を泳ぐか、下を潜って)向こうに行き、向こう側の踏み跡を探す。そして両側から枯れ枝のブッシュに“トンネル”を掘るのである。しだいに獣道と古道跡を見分ける眼力が着いてくる。鉈、鋸、鉈鎌のほか、チェンソーと刈り払い機も加わった。それでもスカイライン横道からスカイライン縦道までの1.5kmを切り開くのに7時間かかっている。
最大の難所は標高1800〜2000mの倒木帯であった。ひと山全体を巨大ショベルカーで引っかき回し、逆茂木を植え直したような惨状である。登山道は見えていても倒木が積み重なっていて通過できない。大木の根返りで大穴が開き、小山ができて踏み跡は消える。傾斜が緩んでいるところは日沢の扇状地になっていて、雪崩が運んだ砂の堆積が登山道と見紛うように続いている。
しかしここから上に登るにしたがって踏み跡ははっきりしてくる。2200mを越えると、これが100年間なんの補修も受けなかった登山道かと思うほどしっかりした道になる。
村山を出発して1年後の04年8月1日、7回目の作業でわれわれは、富士宮口新六合目までの村山古道をふたたび“復活”させる。村山古道は1カ所も崩落することなく、残っていた。村山の人たちの喜びには大変なものがあった。
「わたし個人は当初、自分ひとりが『村山古道』を通り抜ければいいと思っていた 。しかしこの間に登山口・村山の人々とのさまざまな出会いが生まれ、ふたたびここに人の流れを呼び戻したいという村山の願いがひしひしと伝わってきた。村山口登山道を復活させようと、途中から考えが変わった」(拙著『富士山・村山古道を歩く』風濤社)
村山古道に重機とコンクリートを入れないでほしい。1人でも多くの人にここを歩いてもらいたい。それこそが復活した古道を維持する最良の方法である。それと同時に、村山古道の歴史を調べることが必要になる。
大倒木帯の中央部に笹垢離跡といわれる廃仏毀釈の破壊痕生々しい石像群があるが、ここを通るルートを確定するまでにはさらに2年かかっている。地蔵だといわれてきたものが、不動尊に仕える僧形ではないかと分かってくる。
日沢の左岸から右岸に渡る横渡の位置を確定するのにも苦労した。それまで頼りにしてきた富士宮市教委の調査報告書(1993)の表現が曖昧だし、写真は別の場所のようだ。何回も沢底や両岸を登ったり下ったりした。07年のスラッシュ雪崩にも埋まらない希有の地形であった。
難航したのが「岩屋不動」の発見である。江戸時代の絵図には「笹垢離ヨリ東八丁」とあるが、大倒木帯をあてもなく800メートルも横断することはできない。ヒントになったのは「岩屋」である。富士山で岩穴といえば沢筋のほかにはありえない。
村山古道の1本東の沢は底が浅く、直径50メートルほどの噴火口しか見つからなかった。さらに1本東の沢は深く切れ込んでおり、古い資料で調べると不動沢というらしい。詰めていくと、湿気の多い苔むした溶岩流の跡で、樋を垂直に立てたような滝などあって直登はできない。シカ道を利用して高巻くと甌穴があって、一見人工的な龕かとも思える。そこからひょいと首を上げると、高さ1.5メートル、間口9メートルの洞窟が口を開いていたのである。08年8月のことであった。
江戸時代の絵図によると、中宮八幡堂から高八(高鉢)太郎房に直接登るルートがあったらしい。これはいま急速に進んでいる笹枯れが広がれば意外に簡単に見つかるだろう。
わたしの探求心はさらに新しいテーマを求める。
古い富士登山写真帳が富士市在住の地方史家の手許に残っている。明治35年(1902)に京都から来た一団が村山古道を登り、須走口に下ったときのスナップ写真25葉である。スキャナーで取り込みパソコンの透過光で拡大して見ると、紙焼き写真では信じられないほどのさまざまな情報が読み取れることが分かった。寺院の向拝の彫刻の細部、衣服の皺や柄から登場人物の職業まで読み取ることができる。昨年は1年掛けて全コースをたどって、100年前の場所を確認し現在との対比をおこなうことができた(富士学会発表)。村山古道の資史料は限られているが、結果としてほかの登山口の歴史文献を膨大に読むことになり、おまけとして未整理の富士山資料の大群が眠っていることが分かった。どうすれば一般の利用が可能になるか、思案中である。
今年の課題はコノハナサクヤヒメとイワナガヒメである。富士山の祭神が、富士山本体からカグヤヒメに替わり、江戸幕府の宗教政策によってコノハナへと置き換えられてきたといわれるが、ごくわずかながらイワナガを祀っている神社が伊豆地方を中心に残っている。美人薄命の代名詞ともされるコノハナに対して姉のイワナガは長命ながらブスの権化とされている。なぜ、どこで、神々の流れが分かれたのか。探査の足はさらに広がっていく。
2010年3月23日掲載
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