深田 久弥
富 士 山

                    
 この日本一の山について今さら何を言う必要があろう。かって私は『富士山』という本を編むために文献を漁(あさ)って、それが後から後から幾らでも出てくるのにサジを投げた。おそらくこれほど多く語られ、歌われ、描かれた山は、世界にもないだろう。
 世界一の資格はそれだけではない。山岳史家マルセル・クルツの書いた『世界登頂年代記』を見ると、富士山は六三三年に役(えん)ノ小角(おづぬ)に登頂され、そしてそんな高い山へ登ったのは、これが世界最初となっている。小角の登山は伝説的であるが、しかし平安朝に出た都良香(みやこのよしか)の『富士山記』には頂上の噴火口の模様が書いてあるから、もうその頃には誰かが登っていたに違いない。一番早く富士山が人間の到達した最高峰の記録を樹てたわけである。しかもこの記録はその後長い間保持され、一五二二年ポポカテペテル(五四五二米)の登頂まで続いた。約八、九百年もレコードを保っていたことになる。一夏に数万の登山者のあることも世界一だろう。老いも若きも、男も女も、あらゆる階級、あらゆる職業の人々が、「一度は富士登山を」と志す。これほど民衆的な山も稀である。
 と、いうより国民的な山なのである。日本人は子供の頃から富士の歌をうたい、富士の絵を描いて育つ。自分の土地の一番形のいい山を指して何々富士と名づける。最も美しいもの、最も気高いもの、最も神聖なものの普遍的な典型として、いつも挙げられるのは不二の高根であった。
 世界各国にはそれぞれ名山がある。しかし富士山ほど一国を代表し、国民の精神的資産となった山はほかにないだろう。「語りつぎ言ひつぎゆかむ」と詠まれた万葉の昔から、われわれ日本人はどれほど豊かな情操を富士によって養われてきたことであろう。もしこの山がなかったら、日本の歴史はもっと別な道を辿(たど)っていたかもしれない。
 全くこの小さな島国におどろくべきものが噴出したものである。富士を語ってやまなかった小島烏水(うすい)氏の文章に「頂上奥社から海抜一万尺の等高線までは、かなりの急角度をしているとはいえ、そこから表口、大宮町までの間、無障碍(むしょうがい)の空をなだれ落ちる線の悠揚さ、そのスケールの大きさ、そののんびりとした屈託のない長さは、海の水平線を除けば、凡(およ)そ本邦において肉眼をもって見られ得べき限りの最大の線であろう」とある。
 おそらくは本邦だけではない、世界中探してもこんな線は見当たらないだろう。頂上は一二五米、その等高差を少しのよどみもない一本の線で引いた例は、地球上に他にあるまい。。
 八面玲瓏(れいろう)という言葉は富士山から生まれた。東西南北どこから見ても、その美しい整った形は変らない。どんな山にも一癖あって、それが個性的な魅力をなしているものだが、富士山はただ単純で大きい。それを私は「偉大なる通俗」と呼んでいる。あまりにも曲がないので、あの俗物め! と小天才たちは口惜しがるが、結局はその偉大な通俗性に甲(かぶと)を脱がざるを得ないのである。
 小細工を弄(ろう)しない大きな単純である。それは万人向きである。何人をも拒否しない、しかし又何人をもその真諦(しんたい)をつかみあぐんでいる。幼童でも富士の絵は描くが、その真を現わすために画壇の巨匠も手こずっている。生涯富士ばかり撮って、未だに会心の作がないと嘆いている写真家もある。富士と睨めっこして思索した哲学者もある。
 地面から噴き出した大きな土のかたまり、ただの円錐(えんすい)の大図体(ずうたい)に過ぎぬ山に、どこにそんな神秘があり、そんな複雑があるのだろう。富士山はあらゆる芸術家に無尽のマチエールを提供している。「不尽(ふじ)の高嶺(たかね)は見れど倦かぬかも」と歌ったのは山部赤人(やまのべのあかひと)であった。「雲霧のしばし百景をつくしけり」と詠んだのは芭蕉であった。大雅(たいが)は富士に登ること数回、その度に道をかえ、あらゆる方面から観察して「芙蓉峰(ふようほう)百図」を作った。北斎もまた富士の賛美者で、その富岳三十六景の中の傑作「凱風(がいふう)快晴」と「山下白雨」を残した。夢窓国師は造園の背景に富士を取り入れ、北村透谷は富岳に詩神を見出した。
 富士山は大衆の山である。俗謡小唄にうたわれ、狂歌狂句にしゃれのめされ、諺(ことわざ)や譬(たとえ)にも終始引用されている。新聞の初刷りの第一ページは大てい富士山の景であるし、富士の名を冠した会社・商品の名は挙げるに堪えまい。
 富士山は万人の摂取に任せて、しかも何者にも許さない何物かをそなえて、永久に大きくそびえている。

『日本百名山』
(新潮文庫)
著者:深田 久弥
発行:株式会社 新潮社

                                            2010年8月22日掲載








 
日本人はたいていふるさとの山を持っている。

山の大小遠近はあっても、

ふるさとの守護神のような山を持っている。

そしてその山を眺めながら育ち。

成人してふるさとを離れても、

その山の姿は心に残っている。

どんなに世相が変っても

その山だけは昔のままで、

あたたかく帰郷の人を迎えてくれる。

私のふるさとの山は」白山であった。

深田久弥「日本百名山」より。






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