「わたしと富士山」


富士吉田市長 堀内 茂

         

 東京都中央区の下町に育った私には「富士山」はとても遠い存在だった。
 幼い頃、東京でも富士山を見る機会は多かったが、今では大きな建物や大気の関係上、見える機会が少なく寂しい限りである。
 当時は、家のお風呂に入るより、銭湯に通うほうが多かった。多くの銭湯がそうであるように、浴場の壁の多くは富士山の絵が描かれていた。私の通っていた銭湯も例に漏れず、富士山が端正な形で描かれていた。実際には見たこともないこの「富士山」はやはり日本の象徴であると幼な心にも納得した。
 縁があって富士吉田市に居を移し、はや30数年が経過しようとしている。東京で見るのと違い、ここの富士山はすそ野まですっきりした形で見える。多くの人々が富士山を思い浮かべる時に、ここからの富士山を思い浮かべるものと思う。多分銭湯の富士山と同じ構図だからではと自分なりに解釈している。

 この地方は高冷地のため夏は清清しい季節である。夏の暑い日でも夕方には清涼な風が吹き渡りとても過ごしやすい。真夏でも薄手の布団をかけて寝ないと、夏風邪をひいてしまうくらいである。しかし、温暖化の影響のせいか、寝苦しい夏の夜や真夏日が徐々に増えている。30数年前まではエアコンのある家など皆無で、まして車のエアコンなどは、この地方では不要であった。しかし今、車にはエアコンが常備されており、企業はもとより、一般家庭にもエアコンが増え始めている。富士山の環境保全を含め、地球的な規模での温暖化防止対策が早急に必要であると痛感している。

 ところで、富士吉田市では、富士山信仰の歴史を後世に伝え、また地域の資源として活用していくために、様々なイベントを行っている。その一つとして『御山参詣〜富士まで歩る講』がある。かつての信仰の道を現代に復活させるために、日本橋から富士山の麓であるこのまちまでの約120キロを五日の行程で、歩くイベントである。(平成20年度は6月26日に出発)
 日本橋から続く甲州街道は、大月で分岐し、「富士道(ふじみち)」として、ゴールであり富士山登山の起点となる北口本宮冨士浅間神社に繋がる。一行は富士吉田市内に宿泊し、翌日には麓から登れる唯一の吉田口登山道から山頂を目指し登山を開始する。
 富士山は「霊峰」と呼ばれるように信仰の山であり、江戸時代には富士講と呼ばれる富士山を信仰する講社が「江戸八百八町に八百八講」と言われるほど盛んであった。富士吉田市はこの富士講の人々で大いに賑った街でもある。この信者を受け入れたのが「御師宿坊」である。残念ながら、多くの宿坊は時代の変遷とともにその姿を消しているが、歴史的文化遺産である御師宿坊を永久的に保存し、後世に伝承していくため、かつて繁栄していた場所に修理・復元した施設が「御師旧外川家住宅」である。現在一般公開しており、富士吉田市歴史民俗博物館の附属施設として、古文書や御師の道具などの資料を展示しているので、是非一度足を運んでいただきたいものである。

 さて、富士山は世界文化遺産の登録に向け、山梨・静岡両県や多くの関係者のご尽力により活動を行っているところである。本登録までは様々な問題をクリアしなければならない。この霊峰富士が世界の遺産として登録され、人類共通の財産として後世にその姿を残せるよう、地元としても努力していかなければならない。富士山の自然や文化を活かす中で、地域の特性との融合を図り、世界に名だたる霊峰富士を中心として、伸びやかに暮らせるまちになるよう、これからも精一杯努力する所存である。

御師旧外川家住宅正門

富士山と桜
夏富士山
富士まで歩る講


2008年7月23日掲載
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