10年前、富士美術館の館長を拝命し、毎年ほぼ週1回の頻度で東京八王子から静岡富士宮の富士美術館に通勤することとなった。電車や車の車窓から富士を仰ぐ機会が増え、そのつど感慨を深くしている。
富士山について興味を引いたのは、館長就任後、成瀬不二雄氏の論文「中世における富士山表現の定型の成立」(『日本絵画の風景表現』所収)に出会ってからである。論文の主旨は富士山の真中が最も高く神々しい三峰型の姿が、富士宮からの眺めであるとの指摘であった。これによって富士山浅間神社本宮がなぜここ富士宮に存在するかも理解できたからである。
富士山を描く画家といえば、江戸時代で葛飾北斎、明治以降で横山大観が、絵の数も多く大変に名高い。北斎の<富嶽三十六景>に見る富士山は、峰を細くするため実景描写ではないと思われがちであるが、そうではない。「この絵は富士の形の、その所によりて異なることを示す」(『葛飾北斎伝』)と本人が宣伝した通り、それぞれの場所を特定できると考えた方がいいと思う。三大傑作のうち、地名を記さない<凱風快晴>は稜線の形から見て、忍野あたりからの朝の眺めであり、<山下白雨>は三峰の中央が高く示され、裾野の左側に大室山などが描かれているので、富士宮あたりということになろう。
大観の場合、当館でも所蔵9点中2点が富士山の絵である。本人は「あの山容はとても好きだ」といい、「本当の富士山という時、欠点を出さない方がいい」(『大観自伝』)とも云っている。大観の富士山絵が、不思議に愛着を覚え、飽きが来ない特質を、この言葉を通して知ることができると思う。
当館の姉妹館の東京富士美術館には、江戸時代の富士山を描く屏風が一対ある。一面ススキの原に丸い月が沈み、雲の上に三峰型の富士山が描かれている<武蔵野図屏風>である。これは俗謡の「武蔵野は、月の入るべき山もなし、草より出でて、草にこそ入れ」による絵とされ、武蔵野には山がなくとも、遠くに富士山が見えると、借景で富士山を取り込んだ江戸っ子の心意気を描いているという。江戸庶民の富士を仰ぐ真情が感じられて面白い。今でも東京の武蔵野線や多摩モノレールに乗ると、東京都から埼玉県にかけて、車窓から富士山が美しく見える。
当館の創立者池田大作SGI会長も、富士山に対する思いが深い。3年前であるが「富士の山一人厳たり恐れなし」「嵐にも何も恐れず富士の山」「戦いの最後の姿は富士の山」等多くの歌を詠んでいる。多くの会員を激励するためこのほか沢山の歌を残しているが、富士山が日本一を象徴し、その完成された姿に人間を投影して、さらに成長をめざす青年群像に対して、深い思いを寄せているからにほかならない。
関係する創価大学はじめ、多くの建物が富士山の見えるところに建っていることも特筆されていい。「富士の見えるところに」とご本人が指定したからである。実際当館も、最も峻厳な三峰型の富士を仰ぐ富士宮の地に建ち、池田先生により命名・創立されて今日に至っている。私もこのような富士山の名に恥じない財団法人富士美術館において、今後も社会に貢献する展示活動を展開したいと念願しているしだいである。 |