9月26日の「富士山諸々」の初冠雪のお知らせに刺激され9月27日朝、ライブカメラで富士山の頂の冠雪を見ました。薄黒い富士山の全景に、頂上にはっきりとした白い雪、前方には濃い黒い針葉樹の森、棚引く白い雲、とても心地よい“いっとき”でした。(Lサイズで見ました)
雪で覆われたまっ白い富士山も早く見たいですね。
2011年 9月27日
K.H. 和歌山県 和歌山市 在住
● (事務局より) 富士山を肉眼で見られない地域の方がたから上記のようなお便りをたくさん頂きました。特に外国で生活している知人、友人にこの
富士山ライブカメラをご紹介下さい。海外での生活の
“いやしのいっとき”になることでしょう。
もうひとつのお便りを紹介させてください。
富士山近辺でドーンという大きな音。ドシーン、ズシーンという強い響き、振動を感じた方は多いと思います。特に冬場は多く感じられます。
これは東富士、北富士の自衛隊と米軍の広大な軍事演習場です。
富士山が世界自然遺産から文化遺産への申請に変わったようですが、このような世界文化遺産が誇れるのでしょうか。
確かに、富士山は日本のひとつの象徴であり、古くから信仰の場として崇拝され、稀有な文化的、芸術的象徴です。
私はこの点においては全く同感です。
しかし・・・・・・・、私は考えます。
山梨県、静岡県 そして国は 「臭いものにフタをする」 という考えではなく この広大な日米の軍事演習場について直視するべきです。
2011年 8月 3日
東京都 千代田区 K.Mさん からの投稿です。
富士山に登りました。何度登っても頂上から見る景色に圧倒され、下界では味わえない感覚に包まれます。いいですね!
ひとつ感想を。
富士山周辺の地元の村、町、の電信柱をすべて埋設したらどうでしょうか。電線も電信柱も無くなり富士山はより素晴らしい富士山になることでしょう。観光客も増えると考えます。
電信柱の跡には植樹、全国のふるさと富士山地区からの寄贈とし、ふるさと富士山の名前のついた札をさげます。おもしろい運動になるのではないでしょうか。
2010年 10月18日
東京都 千代田区 A.Gさん からのお便り
高知県に「土佐富士」と呼ばれる山があります。標高約300メートル。江戸時代末までの長いあいだ、この山は「こうのもり」(「高ノ森」あるいは「鴻ノ森」)と呼ばれていました。昔は中小の山を森と呼んでいたのです。なだらかな南面は蜜柑畑に開拓され、現在も美味しい蜜柑を産出しています。
さて、この「高ノ森」が江戸末期以後「土佐富士」という愛称で親しまれるようになりました。いわゆる「ふるさと富士山」です。いったい、どのようないきさつがあったのか。だれが名付けたのか?
私は、そこには重要な歴史秘話があったと思うのです。名付け親は、かの坂本龍馬であるという推理、いや確信です。
若き龍馬は時代変革の志を抱いて単身江戸に出ます。長い長い徒歩の旅。日本の大きさを知ります。そして東海道に入ったどこかで、初めて雪をいただく富士山を遠望する。それは晴天の霹靂に似ていた。心は大きく揺れ動く。土佐にこのように偉大な山はない。やがて駿河路。歩みとともに富士山は大きさを増し、天高く聳えていく。田子ノ浦では、ついに富士山の威容に龍馬は驚嘆圧倒され、畏敬の念とともに日本人である誇りに震えた。いかに土佐が小さいか。いかに自分は小さい存在か。そして富士という山の、まさに霊峰である気高さと偉大さを知った。
千葉道場での修行のあいだも、富士の容姿が脳裡を満たす。日本変革の志はいやが上にも高まり、確固たるものになっていく。江戸のあちこちからは、あの富士山が見える。そのたびに、龍馬は激励を感じて情熱を燃やし、ついに剣の道を究めた。龍馬は故郷の土佐に戻ります。
その龍馬の心に、再び仰ぐあの富士山のありがたくも偉大な姿がふくらんでいった。剣の道を極めた彼が仰ぐ霊峰の感動は、江戸に出る前とは趣を一変していた。ひとり聳える孤高の美しさ、峻厳、裾野をふくむ広大さ。それは言葉に尽くせぬ崇高な山だった。
一個人の夢を超えて、国家の革新、広い世界の認識、そして、新しい日本と日本人のありよう。それらの思念が富士山に投影されていくように思えた。龍馬の思いは高まり、富士山は志と希望の象徴となる。同時に、つねに仰ぐべき偉大な師となった。
帰郷した龍馬は予期せぬ驚きと喜びに出会う。それは「高ノ森」との再会だ。なんと我が土佐に、富士山があるではないか。高さと大きさでは雲泥の差こそあれ、姿は富士山に似ている。「私の富士」がここにある。彼はとっさに思いついた。これは「土佐富士」である、と。龍馬は「高ノ森」を「土佐富士」と命名し、大志遂行に燃えたのであった。
いかがでしょうか。
以上が私の「龍馬伝」です。大人の夢。ご意見ご感想をいただければ幸です。
2010年 4月30日
世田谷区船橋 須藤訓平(会社員)
高麗山(こまやま)は、かわいい形の山で、国道一号線のすぐ脇にぽっこりとあります。
もう、何十回登ったことでしょう。小学1年生から5年生まで毎年秋の遠足は高麗山でした。
その頃は高麗寺山(こうらいじやま)と呼んでいました。
落ち葉を踏みしめて滑らないようにすごく気をつけながら降りた情景が浮かんできます。
家族でも、友達同士でもよく登りました。途中木々の間から海が輝いて見えて、ご来光を見たこともあります。父は退職してから数年は毎朝散歩代わりに登っていました。
私が結婚して茅ヶ崎に住まいを移してからは、春休みや夏休みにおにぎりをもって父と私と子どもたちで登ったりもしました。平塚の実家から花水川沿いに歩き、国道一号線沿いの高来神社から「さあ登ろう!」というそのときに子どもたちの「お腹がすいた」の大合唱。「食べてから登った方がよく登れるぞ」と言う父の言葉に迷わず持ってきたおにぎりを半分食べてしまったり、途中で見つけたアケビの食べ方を父から教わったり…みんなの笑顔が昨日のことのように思い出されます。
高麗(こま)のあたりは、その昔高句麗から逃げて来た人たちが住んでいたのでその名がついたと聞いています。花水川沿いには唐ケ原(とうがはら/以前はもろこしがはら)と言う地名もあり、渡来人が住んでいた名残でしょうか。近くの撫子が原という所には母が子どものころには撫子の花がほんとに沢山咲いていたそうです。渡来人の娘さんが故郷を恋しがって入水自殺したあとに咲き始めたという悲話が語り継がれています。
平塚の市花は撫子。校歌にもなでしこという歌詞が入っていました。
東海道53次を使ったポスターは大磯~平塚のお店に貼ってあるのをよく見かけます。
こんなに高麗山と親しいのに、「平塚富士」という言葉は初めて聞きました。
私が聞いているのは、東海道をいく旅人に「あれは箱根山だ、今からではとても超えられない」とだまして平塚の宿場に泊まらせたという話です。
車で134号線を平塚に向かうと、前方に富士山、左に湘南海岸、伊豆半島から箱根連山。
右に高麗山、その後ろ一帯に大山連峰という見慣れた景色が広がります。
美しい富士山のラインとはかなり違いますが、「日本といえば富士山」に対比させるなら
「平塚といえば高麗山」には頷けます。四季折々身近にあって「山笑う」「山滴る」「山装う」「山眠る」という俳句の季語を実感する日々です。
ぽっこりしたかわいらしい姿に、私や家族の思い出がよみがえってきます。高麗山は、平塚の人にとっては我が家の庭のような山なのです。
2010年 8月
I.F (平塚育ち。茅ヶ崎在住)